八王子城址入口−−太鼓橋(円通橋)−あしだ曲輪−福善寺−鳥居−− −−金子丸−−分岐(帯曲輪・おびくるわ)−−七合目−八合目(分岐)− −−九合目−−八王子神社−−−本丸跡 所要時間 登り・・約40分 (画像をクリックすると、大きくなります) |
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* (入り口)・・・(案内図)・・・(居館地区図) |
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●1コース |
”八王子城跡”入り口を入らず、右へ進みます。 鳥居をくぐり、真っ直ぐに登ります。 標識(←城山頂上・八王子神社 元八王子・高尾町→) * (鳥居をくぐって)・・・(←城山頂上・八王子神社) すぐ分岐(新道・旧道)になり、新道を行く事に。 (旧道は少し荒れていますが、8合目で合流します) 標識(←新道/城山頂上・八王子神社 ↓八王子市方面 旧道/元八王子・高尾町→) まもなく管理事務所方面からの道と合流し、鳥居をくぐります。 * (分岐)・・・(←新道/城山頂上・八王子神社)・・・(新道へ) |
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●太鼓橋・円通橋 この橋は氏照時代には曳き橋でしたが、現在の橋は昭和10〜12年頃作られています 橋の名前に「円通橋」とあるのは、千葉県に福善寺と呼ばれる寺があり、円通寺住職 の余生を送るためや若い僧の修行に使い、福善寺は円通寺の隠居寺であったのです 福善寺が江戸時代に興廃し、円通寺は明治の始に渋谷の吸江寺と合併などがあり、 人々の記憶から忘れている円通寺を橋の名前として残したのです。 |
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●あしだ曲輪 ”慶安古図” に ”アシダ蔵” と書かれています。 2〜3段の曲輪群からなり、館や倉庫があったと考えられます。 落城時、近藤出羽守が守っていたといわれています。 |
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右方向に行くと、尾根づたいに”本丸跡” に登る新道です。 標識・・・・・(右) 鳥居経由 八王子城・八王子神社・本丸 (左) 観音堂経由 御主殿跡・御主殿の滝 本丸跡方面に行くと、すぐ鳥居があります。 * (福善寺が見えてきます)・・・(分岐) (本丸跡方面へ) |
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左手の山道を帯曲輪(おびくるわ)と言い、敵を誘い込んで攻撃するおとり道だったそうです。 山道は現在最も歩かれているハイキングの道で、山々が良く見えます。 金子丸の先で合流します。 * (鳥居をくぐっていきます)・・・(左手・・帯曲輪・おびくるわ)・・・(途中) |
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●金子丸 金子三郎衛門家重が守備した曲輪で、金子丸とよばれています。 尾根をひな壇状に造成し敵の侵入を防ぐ工夫がされ、氏照時代は石段はありませんで したが、ここを通らないと山頂へはいけなかったそうです。 |
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さらに進むと、七合目の石柱がありました。 * (ベンチ)・・・(七合目) |
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氏照時代は”柵門台”と言われてました。 標識(←城山頂上・八王子神社 ↓新道 旧道・松竹バス停→) * (分岐)・・・(八合目) * (本丸跡方面へ)・・・(分岐)・・・(旧道・松竹バス停方面へ) |
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(東京和合講社先達 邦井天界霊○ )と書かれていますが、最後の字が解りません。 * (石碑) 突き当たると九合目です。 石柱の少し離れた右側に、宮標石がありました。 * (九合目)・・・(宮標石) 宮標石 明治時代に御料林とされ皇室所有の土地としたときの標石だそうです。 標石の上には”X ”が印され、側面に“ 宮 ”の刻印がされています。 宮マークは御料局の印しで、反対側には境界を印した表示があります。 2008年6月に水沢山(群馬県高崎市)で見てから8回目の対面です。 ほかに石老山(神奈川県相模湖町)・三国山(山梨県山中湖町)・高指山(山梨県山中湖町) 精進湖パノラマ台(山梨県富士河口湖町)・三方分山(山梨県富士河口湖町) 景信山(東京都八王子市) であいました。 本丸跡に向います。 急に左手が開け、八王子市内や筑波山、右端のほうには相模湾も見えます。 * (右画像/八王子市内方面) |
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大きなスギの大木の間から八王子神社が見えてきます。 |
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●八王子神社 延喜13年(913)、華厳菩薩妙行が山頂で修行中に、牛頭天王と八人の王子が現れま した。 厄よけの神様なので、北条氏照は延喜16年(916)に八王子権現を祀り、城の守護神と しました。 この伝説が、”八王子”の名称の起源とされています。 神社の左方向へ行くと”松木曲輪の見晴台”があり、脇に大きな石碑がたっています。 ●松木曲輪 中の丸とも二の丸とも呼ばれ、中山勘解由家範が守備していました。 前田利家軍と奮戦しましたが、多勢に無勢で防ぎきれませんでした。 * (見晴台) * (右画像/高尾山方面) 神社の右側階段を登ると、”本丸跡方面” です。 また標識(←高尾山・陣馬山 八王子神社・元八王子→)とトイレもあります。 * (トイレ)・・・(本丸跡方面へ) |
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突きあたりを左に行くと本丸跡に行き、右に行くと三の丸です。 ”本丸跡” に到着。 深沢山(城山)の地形を巧みに利用して作られています。 頂上に本丸が設けられましたが、平地があまり広くないため大きな建物はなかったよう です。 横地監物吉信が守備していました。 焼けた櫛が出土したことから、最後の戦いに女性ががいたということだそうです。 また周囲に敵の侵入や攻撃を防ぐために「曲輪」と呼ばれる平場が配置されています。 * (本丸跡) 見晴台にいらした男性に教えてもらったコース(井戸方面から山王台経由で御主殿に)で 下る事にしました。 (画像をクリックすると、大きくなります) |