(3)展示コーナー1

                    


    (3)展示コーナー・・・沢山の貴重な資料が展示されています。

                  


      旧瀬戸邸と大相撲
         旧瀬戸邸には「板番付」と呼ばれる大相撲の番付表が残されています。
         この番付の右側には、「贈 瀬戸常蔵さん江」と書かれ、稚内準本場所の関係者であった瀬戸
         常蔵に贈られたものです。
         板番付とは、本来来場していただいたお客さんに、その場所の出場力士の顔ぶれを知らせるた
         めに設けられたもので、力士、親方、行司、呼び出しなどたくさんの名前がびっしりと書かれてい
         ます。
         板番付の上の部分は、ちょうど「入」という形になっており、興行の大入りを願う、江戸時代から
         続く伝統の様式です。
         この板番付に描かれているとおり、1964(昭和39)年8月5日、最北の地、稚内に大相撲が巡業し
         ます。
         昭和39年というと、大鵬・柏戸という現在も語り継がれる昭和の大横綱が活躍した時代です。
         この時代の子どもたちの好きな物といえば「巨人・大鵬・卵焼き」。
         野球選手とならび、お相撲さんたちが今以上に国民的ヒーロでした。
         当時、力士たちは地元の有力者の自宅を訪れるのが通例だったようで東の横綱、大鵬は、ここ
         旧瀬戸邸を訪れています。
         またこの板番付のほかにも、旧瀬戸邸には大鵬はじめ、力士たちのサインが残されています。
         そのなかでも横綱、吉葉山(横綱として昭和29〜33年まで活躍)からは、瀬戸邸の竣工記念にに
         銀杯が贈られており、当時、瀬戸常蔵と大相撲との深い関わりが窺えます。
         また吉葉山も横綱時代の稚内巡業の際、旧瀬戸邸を訪れ、もてなしを受けたと伝えられています
         ちなみに第69代横綱、白鵬は吉葉山の孫弟子にあたり、2007(平成19)年5月に横綱に昇進した
         際の土俵入りの型は吉葉山が行った不知火型を継承、同年6月に明治神宮で行われた奉納土
         俵入りでは、吉葉山が現役時代に着けてい
         た三つ揃いの化粧廻しを使用したそうです。

                                      


      稚内での相撲巡業と瀬戸常蔵〜横綱大鵬も訪れた「旧瀬戸邸」〜<1964(昭和39)年8月5日>
         この写真は1964(昭和39)年、大相撲稚内準本場所での1枚で、総勢で500人を超える大相撲一
         行がこの年の夏、稚内にやってきました。
         まず4日の夜に荷物とともに十両以下の力士たちが到着し、翌朝には畳敷きに改装された十輌
         編成の特別列車で大鵬・栃乃海といった三横綱をはじめとする力士たちが稚内入りをしました。
         会場には、市内の小学生や宗谷・天北線沿線の人たちも繰り出し、約3千人の相撲ファが土俵
         の周りに詰めかけたそうです。
         写真は土俵上で撮影されたもので、左はじの人物が浜森辰夫稚内市長(当時)、右端の人物が
         瀬戸常蔵です。
         なお取組みは、市内の高校グランドに特設の土俵を設けて行われました。
         写真奥に写っているのが会場となった稚内大谷高校校舎で、昭和38年までは稚内高校(同年、
         同校は新築移転)、戦前は稚内中学校として、稚内の歴史をみつめてきた建物です。
         また5日の朝、各力士は稚内駅に到着後、いくつかの宿舎に分散し休息をとったそうです。
         その中の一つに「旧瀬戸邸」があり、このとき昭和の大横綱、大鵬がこの邸宅を訪れています。
         ちなみに横綱栃乃海は浜森市長の兄にあたつ、浜森政雄邸を宿舎としたそうです。

              


      肥料製許可書 昭和8〜10年頃(木製)
         ニシンがたくさん獲れた時期には、大きな釜でニシンを煮て「ニシンかす(肥料)」を作っていました
         この資料は、そのころ北海道庁から営業の許可を受けた木製の許可書になります。
            指令4003番 肥料製造業
               北海道宗谷郡宗谷村大字泊内村字杖苫内番外地   冨澤武助

      刷り板 昭和初期(亜鉛引きトタン製)
         製品や生産者の名前が記された板です。
         この刷り板には「宗谷 にしむら」と書かれています。

      紅燈 昭和38年(真鍮製)
         稚内の底曳船で実際に使用されていたものです。
         航海中、安全のため点灯が義務付けられており、右側には「紅燈」が、左側には「青燈」が油で
         灯されていました。

      六分儀(ろくぶんぎ 昭和49年)
         六分儀は、角度をはかる道具で、現在でいうGPSのような役割をもった機械です。
         航海中に太陽などの星の高度を測定し、船の位置(緯度)を割り出しました。

    * (肥料製許可書 刷り板)・・・(紅燈)・・・(六分儀)

                             


      底曳船(そこびきせん 模型)
         この船は「第八寿久丸」という底曳船の模型です。
         船は造船されると進水式が行われ、くす玉につながれた綱(支綱)を斧で切断される儀式が行わ
         れました。
         底曳船の手前に展示されているのが、第八寿久丸の命名書とその斧になります。

      命名書
         命名 本船を第八寿久丸と命名する
                昭和46年2月8日  瀬戸漁業株式会社  取締社長 瀬戸常蔵

                           


      斧(支綱切断斧)昭和48年(銀製)
        進水式の綱(支綱)を切るこの斧は、造船所が船ごとに作り、その記念として船主に贈ったものです

                      


      船時計(精工社 製)
         実際に底曳船の中で使用されていた船時計です。

      浮き玉
         魚網につけ使用されていたガラス製の浮き玉です。
         以前は日本中の漁村でよく見られましたが、現在はプラスチック製のものが使用されています。

      にしん刺し網(昭和30年代)
         この刺し網は、稚内市東浦地区の田口漁場で使用されていたものです。

                  


               


      磁気コンパス修正道具

                  


                  


                  


                          


                         (画像をクリックすると、大きくなります)


                               ● (入口へ) ●

 

HTML Builder from Excel   作成:QQQ