(11)新奥山

                           


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   << 新奥山   瓜生岩子女子銅像−→高橋石斎之碑−→一葉観音像−→

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              −→石井漠「山を登る」記念碑−→映画弁士塚−→曽我廼家五九郎顕彰碑→

                         −→喜劇人の碑−→戸田茂睡墓−→力石−→五瀬植松碑 >>

  ● 新奥山
       江戸の昔、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸の盛り場として大道芸人や見
       世物小屋で大いに賑わう、著名な場所であった。
       奥山の名の由来は記録にないが、おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられたと思われ
       る。
       明治以後、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興行街・映画のメッ
       カとして栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。
       現在は、この地を「新奥山」として整備し、諸碑が建立されている。
       この中には、往時の浅草の賑わいを伝える記念碑も建てられている。     金龍山 浅草寺

                          


  ● 瓜生岩子女子(うりゅういわこじょし)銅像   台東区浅草2丁目7番
       岩子は通称。  正しくは”岩”という。
       文政12年(1829)2月15日、岩代耶麻郡(いわしろやまぐん/現在の福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生れ
       たが、9才の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。
       そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。
       14才の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏(し
       ゅんろう)の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。
       17才で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。
       明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、
       明治22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。
       明治30年(1897)4月19日、福島で没す。享年69。
       生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、明治34年4月、篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像
       が造立された。
       台石正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。      平成8年(1996)7月 台東区教育委員会

                  


  ● 高橋石斎之碑
       高橋石斎は、尾張藩の剣道指南役で書家としても有名でした。

  ● 一葉観音像

    * (高橋石斎之碑)・・・(一葉観音像)

                             


  ● 福地桜痴紀功碑

  ● 瀧沢世古碑

    * (福地桜痴紀功碑)・・・(瀧沢世古碑)

                             


  ● 浅草観光纉緒の碑
       浅草は伝統と歴史の町である 庶民信仰の大本山 金龍山 浅草寺と共にこの町は幾百千年の世を逞
       しく生きてきた
       あるときは源平争乱の戦火に耐え あるときは江戸文化濫觴の地として栄えるなど幾多の興廃消長を
       繰り返して現在に及んでいる
       今日浅草は 都内屈指の観光地として隆盛を極めているが その蔭に浅草を守ろうとする多くの人々の
       血の滲む努力があることを忘れてはならない
       浅草観光連盟は 発足二十周年の佳日をトして浅草の繁栄に多大な貢献をした人々の業績を讃え過
       去 現在 未来を通じここに芳名を列記して後世に永く伝えんとするものである
       庶民の町浅草は この町を愛し慈しみその興隆に一身を捧げる地元の人々によって、滔々たる大河の
       流れのように淀みなく発展を重ねていくことであろう
              昭和43年(1968)10月吉日        東京都台東区長 上條貢
       浅草観光事業功労者
         大谷米太郎 岡田四郎 上條貢 清水谷恭順 山田兵三 小林総介 高坂公一 ョ母木眞六
         穂刈恒一 橋本秋利 村田藤治郎 澤田要蔵 和田長敬 松村繁一郎 森田新太郎 荒井哲郎
         豊田正利 藤谷吉之輔 川喜多忠之助 原戸ョ吉 葛谷輝明 市村一雄 堀安孝 阿部高之丞
         内山榮一 飯村茂 永野章一郎 守山良順 壬生台舜 清水谷孝尚 穂刈幸雄 野口日出男
         中塚泰蔵 小林晴男 矢野隆夫 飯村恵一 吉住弘 西村太刀夫 春木實 松村吉紘 鈴木秋雄
         田中久五郎 松澤欣一 荒井修 岩瀬桂助 橋本秋彦

                         


  ● 石井漠「山を登る」記念碑
       日本の創作舞踊の創始者石井漠
          明治19年(1886)秋田に生まれ昭和37年(1962)1月7日に昇天するまで、
          近代バレエの創造、浅草オペラの旗揚げ、300数曲の創作舞踊など、芸術活動は誠に偉大であり
          ました。
          舞踊生活50年の山坂道を失明にあえぎながら登りつめた不滅の魂を記念するために、実妹栄子
          と共に踊った「山を登る」の姿を碑に刻み石井漠を愛した多くの人々や八重子未亡人の哀悼の念
          を永久に伝えようとするものです。
             題字/谷崎潤一郎   設計/谷口吉郎   彫刻/舟越保武   施工/清水建設
                      昭和38年(1963)4月8日

                          


  ● 映画弁士塚  鳩山一郎書
       明治の中葉わが国に初めて映画が渡来するやこれを説明する弁士誕生 幾多の名人天才相次いで
       現れその人気は映画スターを凌ぎわが国文化の発展に光彩を添えたが 昭和初頭トーキー出現のた
       め姿を消すに至った 茲に往年の名弁士の名を連ねこれを記念する       建設省 大蔵貢
        徳川夢声 樋口旭琅 熊岡天堂 原紫翠 国井紫香 谷天朗 泉天嶺 犬養一郎 大和春城
        斎木嶺水 千代田鶯谷 加藤柳美 石田夢人 森鴎光 高村秀嶺 金子晴洋 染井三郎
        静田錦波 松田春翠 生駒雷遊 津田秀水 加藤如洋 西村小楽天 木下紫楼 竹本嘯虎
        高橋林風 細山夢眼 渋谷白涙 紫野柳晃 三木緑光 五十嵐狂虎 大友保 大原霜渓
        大蔵正一 松井翠声 鈴木涛晃 石野馬城 西村楽天 玉井旭洋 高岡黒眼 林天風 大蔵忠孝
        黒沢松声 加川栄一 松浦翠波 大辻司郎 清水雲山 石井春波 花井秀雄 伊原旭涛 東滔水
        土屋松涛 山野一郎 内藤紫健 中川慶ニ
               建設省 大蔵貢    賛助 大谷竹次郎

        遠山霞洞 中村緑陰 余川天露 牧野周一 雲井天明 松平鶴声 武井秀輔 西澤紅美 河合華水
        松本瓢遊 鈴木光太郎 高橋鶴童 茂木二郎 藤浪無鳴 守谷梅香 井口静波 渡辺遊声
        福地悟朗 島田嶺月 中山生堂 島村春洋 松田快堂 神田楓晃 美津木春堂 梅村紫声
        長田猛虎 岩田晃波 芳本涛華 浜野静波 月島光波 駒田好洋 高麗田桃緩 藤原狂夢
        杉浦市郎 佐々木雀友 石原登美郎 細野暁風 島津天涛 須田貞朗 仙石雷渓 細川天流
        花岡三八 細川春葉 桂一郎 奈美乃一郎 桜井狂葉 徳永天露 藤村緑郎 林旭風
       賛助    松竹株式会社 社長 城戸四郎  東宝株式会社 社長 清水雅
              大映株式会社 社長 永田雅一  東映株式会社 社長 大川博
              日活株式会社 社長 堀久作    新東宝株式会社 社長 大蔵貢

                          


                     


  ● 曽我廼家五九郎顕彰碑
       円形の上部には曽我廼家五九郎(そがのやごくろう)の好きだった「群盲撫象」の文字と「ノンキな父
       さん」の像を描く。
       昭和38年(1963)建立。  題字は大野伴睦筆。
       徳島県吉野川市鴨島 出身、「喜劇王」として浅草で活躍していた。
       映画「ノンキナトウサン(ノンキナトウサン役)」、「山賊(喜多八役)」、「八公(八百八役)」に主役で出
       演する。

                  


                    


  ● 喜劇人の碑
       浅草はかつて、日本のブロードウェイと呼ばれ華やかな街でした。「喜劇人の碑」は人々に笑いと喜びを
       与えてくれた喜劇人たちに感謝の意を表し昭和57年(1982)建立されました。
       碑裏面には喜劇人の名前が刻まれています。

                                 


  ● 戸田茂睡墓 (都指定旧跡)
          所在地/台東区浅草2-3-1 浅草寺内  標識/大正8年10月旧  指定/昭和30年3 月28日
       戸田茂睡(1629〜1706)は元禄期の歌人です。
       渡辺忠の六男として駿府城内で生まれ、父の死後伯父戸田政次の養子になります。
       名は馮(たのむ)、後に恭光(ゆきみつ)、通称は茂右衛門、茂睡のほか露寒軒などと号しました。
       一時岡崎藩本多家に仕えましたが出家し、浅草寺近くに居を構えました。
       「梨本集」「紫の一本(ひともと)」「若葉」などを著し、形骸化した伝統歌学の積極的批判者としての文学
       的意義が認められています。
       自然石の土台、宝篋印塔の基壇、五輪塔の順に配されており、茂睡自身が生前に自らの後世を供養
       した逆修塔です。
            平成24年3月 建設  東京都教育委員会

                          


                  


  ● 力石
       または「さし石」ともいう。
       江戸後期、酒屋・米屋の人足(にんそく)たちの間で酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を
       競うことが流行した。
       この力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。
       正面の「力石・熊遊の碑」は、明治7年(1874)熊次郎という男が持ち上げた百貫(約375kg)ほどの力石
       であり、新門辰五郎らがその記念として建てたもの。   金龍山 浅草寺

                      


  ● 五瀬植松碑

                          



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