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<< 雷門−→仲見世通り >> ● 雷門(風雷神門/ふうらいじんもん) 天慶五年(942)、平公雅(たいらのきんまさ)によって創建されたのが始まり。 門の正面向かって右に「風神」、左に「雷神」を祀る。 このことから「雷門(風雷神門)」と呼ばれる。 ともに鬼面蓬髪(きねんほうはつ)、風袋(かざぶくろ)を担いで天空を駆ける風神と虎の皮の褌を締め 連鼓を打つ雷神の姿は、お馴染みのものである。 また、門の裏側には、向かって右に「金龍」、左に「天龍」の龍神像が祀られ、これら四神は浅草寺 の護法善神として、伽藍守護・天下泰平・五穀豊穣の守り神とされる。 現在の門は、慶応元年(1865)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、昭和35年に松下幸之 助氏のご寄進により復興された。 浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、また、東京・浅草の顔として全国的に有名。 * (雷神)・・・(風神) * 雷門(仲見世方面から) * (天龍)・・・(金龍) ● 仲見世を通って宝蔵門へ向かいます。 * 各店のシャッターに、浅草の伝統行事や四季の風物詩が『浅草大絵巻』として描かれています。 (三社祭り、ほおずき市、隅田川花火、金龍の舞・・・・) * (右側) * (左側) * (左側)・・・(右側) * (仲見世通りは多くの人達で賑わっています) * (左側)・・・(新仲見世通り)・・・(右側) ******************************************* (一) 浅草のあけぼの 浅草は利根川・荒川・入間川が運ぶ土砂の堆積によって作られた。 古墳時代末期に人々が住んでいたことは、浅草寺の本坊・伝法院(でんぼういん)に残る「石棺」 が示している。 この東京湾に面した浅草は、はじめ漁民と農民の暮らす小さな村であったろうが、やがて隅田川 舟運による交通の要衝として、また、観音様の示現による霊地として歴史的あけぼのを迎えるの である。 (二) ご本尊の示現 「浅草寺縁起」によれば、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、隅田川(当時の宮 戸川)で魚を 捕る檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟が一躰の仏像を感得した。 * (一 浅草のあけぼの)・・・(二 ご本尊の示現) (三) 浅草寺の草創 二人の漁師が感得した仏像を郷司の土師中知(はじのなかとも。名前には諸説ある)に示した処、 聖観世音菩薩像とわかった。 そこで、この兄弟は深く帰依し、中知は自ら出家し、自宅を寺に改めて尊像を祀ったのが浅草寺 の始まりである。 この三人を祀ったのが「浅草寺(三社さま)」である。 一方、そうした縁起とは別に、十人の童子がアカザという草で御堂を建てたという伝承もあった。 (四) 慈覚大師中興(じかくだいしちゅうこう)の開山となる ご本尊が示現して17年後、大化元年に勝海上人(しょうかいしょうにん)が浅草寺に来られ、観音 堂を建立し、御本尊を秘仏と定めた(秘仏の由来)。 その後、天安元年(857)慈覚大師円仁(えんにん)が比叡山(天台宗の総本山)より来寺し、ご秘仏 に代わる本尊ならびに「御影版木(みえいのはんぎ)」を謹刻された。 版木が作られたことは、参詣者が増えてきたことを物語るものだろう。 * (三 浅草寺の草創)・・・(四 慈覚大師中興(じかくだいしちゅうこう)の開山となる) (五) 平公雅(たいらのきんまさ)堂塔伽藍を建立 平安時代中期、天慶5年(942)安房の国守であった平公雅は京に帰る途次、浅草寺に参拝した。 その折、次は武蔵の国守に任ぜられるように祈願した処、その願いがかなったことから、そのお 礼に堂塔伽藍を再建し、田地数百町を寄進したと伝える。 その伽藍に法華堂と常行堂の二堂があったことから、浅草寺が天台宗の法の流れに属していた ことが知られる。 (六) 源頼朝の参詣 治承4年(1180)、源頼朝は平家追討い向かうため浅草の石浜に軍勢を揃えた際、浅草寺に参詣 して戦勝を祈った。 やがて鎌倉に幕府を開いた後も信仰を寄せた。 鎌倉鶴岡八幡宮造営に際しては浅草から宮大工を召している。 このように武将や文人らの信仰を集めた浅草寺の霊名は次第に全国に広まっていった。 * (五 平公雅(たいらのきんまさ)堂塔伽藍を建立)・・・(六 源頼朝の参詣) (七) 徳川将軍の篤い保護 天正18年(1590)江戸に入った徳川家康は天海僧正の勧めで浅草寺を祈願所と定め、寺領五百 石を寄進した。 元和4年(1616)には家康を祀る「東照宮」の造営を認め、随身門(現、二天門)の建立されるなど浅 石を寺への信任は篤かった。 寛永年間に観音堂が炎上した際も徳川家光により慶安2年(1649)再建された。 以後、関東大震災にも倒壊せず、国宝観音堂として参詣者を迎えた。 だが、昭和20年の東京大空襲により焼失、現在の本堂は昭和33年に再建された。 (八) 江戸時代 境内と奥山の賑わい 江戸の繁栄とともに浅草寺の参詣者の増え、やがて江戸随一の盛り場となった。 江戸文化の参詣者も増え百数十の神仏祠堂(しどう)が建ち並ぶ庶民信仰の聖地となる一方、奥 山では松井源水のコマ廻し、永井兵助の居合い抜き、のぞきからくり、辻講釈などの大道芸や見 世物が参詣者を喜ばせ、水茶屋・揚枝店・矢場なども立ち並んだのである。 さらに春の節分をはじめ季節の行事は大変な賑わいを呈した。 明治に入って、浅草寺の境内地は「浅草公園」となり、その第六区が興行街となって日本の映画 史、演劇史の上に大きな足跡をした。 同15年鉄道馬車が開通、同23年には浅草一帯を眼下に望む「十二階」が開業されるなど、浅草 は文明開化のさきがけを誇った。 * (七 徳川将軍の篤い保護)・・・(八 江戸時代 境内と奥山の賑わい) (九)浅草寺の寺舞 戦後、東京の復興は浅草の復興でもあり、地元の祈りでもあった。 諸和33年に本堂が再建されたことを記念して「金龍の舞/きんりゅうのまい」、昭和39年には宝蔵 門(旧仁王門)の落慶記念に「福聚宝の舞(ふくじゅたからのまい)」、昭和43年には東京百年祭を 記念して「白鷺の舞」が、それぞれ浅草寺縁起や浅草芝居の由来をうけて創作され、縁日に奉演 されている。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |