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<< 亭樹−→旧天瑞寺寿塔覆堂−→亭樹−→臨春閣−→御門−→臨春閣の玄関 >> ● 旧天瑞寺寿塔覆堂に向かうため、亭樹を渡ります。 亭樹(ていしゃ) 樹とは屋根のある台を意味するそうです。 ● 旧天瑞寺寿塔覆堂(てんずいじじゅとうおおいどう 重要文化財) 寿塔とは長寿を祝って生存中に建てる墓のことです。 豊臣秀吉は、その母大政所(おおまんどころ)が大病にかかったとき、その平癒祈願のため京都大徳寺 内に天瑞寺を建てました。 功験あって平癒したのを喜び、母の長寿を祝って天正20年(1592)石造の寿塔を建てました。 この建物はその寿塔の覆堂で、明治38年(1905)三溪園に移築されたものです。 なお寿塔は現在大徳寺内、竜翔寺(りゅうしょうじ)にあります。 ● 臨春閣に向かうため、再び亭樹を渡ります。 ● 臨春閣(りんしゅんかく 重要文化財) この建物は、紀州侯初代の徳川頼宣によって慶安2年(1649)に、和歌山県那賀郡岩出町の紀ノ川沿 いに建てられた夏の別荘巌出(いわで)御殿といわれています。 8代将軍吉宗は幼時この巖出御殿に育ち、享保元年(1716)に将軍になりました。 また、この建物は数寄屋風書院造として宮家別荘桂離宮と共に我国住宅史上において別荘建築の双 璧といわれています。 三溪園には大正6年(1917)に移築されました。 **** 臨春閣を時計回りにまわります。 * (天楽の間・次の間) * (天楽の間 四季山水図 狩野安信(1613-1685)筆) * (次の間 山水図 雲澤等悦筆) ● 瓢箪文手水鉢(ひょうたんもんちょうずばち) 豊臣秀吉が愛用したと伝えられる手水鉢で、後年藤堂高虎に賜り伊賀上野城にあったものです。 ● 手水鉢 天正17年(1589)に豊臣秀吉がかけかえた京都五条大橋の橋坑を転用したものと伝えられています。 ● 身代わり灯籠 千利休が刺客に襲われたとき、体をかわしたので流れた刀が当たった身代わりの灯籠であるといわ れています。 **** 反対方面から。 * (琴棋書画の間 狩野探幽(1602-1674)筆) * (浪華の間 伝狩野永徳(1543-1590) 欄間一殿上人筆 浪華十詠) ● 御門(横浜市指定有形文化財) この門は、京都の西方寺に宝永5年(1708)頃造営され、大正初期に三溪園に移築されたものです。 規模の大きい薬医門(いやくもん 本柱の後方に控柱を建て、前へ桁を持ち出し、棟は本柱寄りに ある門)の遺構として貴重なものです。 ● 6大正はじめ頃の御門 内苑は、戦後に初めて一般公開されたエリアで、それまでは原家の私庭として、一般には立ち入れな かった。 よって当時三溪園のみやげ物として売り出された絵はがきにも内苑の写真はほとんど見られない。 御門は当時”桃山御殿門”あるいは”桃山御門”と呼ばれ、これは奥の臨春閣が豊臣秀吉築造の桃 山建築・聚楽第の遺構とされていたことによる呼称であった。 戦後、臨春閣は江戸初期に建てられた紀州徳川家の別荘”巖出御殿/いわでごてん”と判明した為 ”桃山御門”は”御門”となった。 写真には、現在ある脇のくぐり戸が見られず、また左に受付所のような建物が付設されている。 ● 突き当たりは、臨春閣の玄関になります。 普段は閉めています。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |