* (20 田舎屋)・・・(19 六角堂) (画像をクリックすると大きくなります) |
<< 旧矢箆原家住宅−→茶筅塚−→(20)田舎屋−→(19)六角堂 >> ● 合掌造・旧矢箆原(やのはら)家住宅 この建物はもと岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありました。 江戸時代宝暦年間(1751〜1764)飛騨三長者のひとりといわれた岩瀬の(矢箆原)佐助の家として飛騨 高山の大工によって建てられたと伝えられています。 御母衣(みぼろ)ダムの建設によって湖底に沈む運命になりましたので、所有者矢箆原家から三溪園に 寄贈され、昭和35年(1960)移築されました。 この建物の特徴は、左半分が式台付玄関をもつ書院造り、右半分が普通農家の造りで、左右で全く異 なる形式構造をもっていることです。 これは上流農家の平面を示しています。 屋根は入母屋造りで、火灯窓が珍しく、この家の格式の高さを物語っています。 * (正面) * (左側)・・・(右側) ● 旧矢箆原家住宅(日常の居住空間) ”おいえ”客間 矢箆原家は庄屋階層の上層農家だったため、村の有力者が集まり、ここで村の様々なことにつ いて話し合いが行われました。 「おいえ」とは”御上(おうえ)”から派生した呼称で、土間に対し床板部分を指していたと考えられ ます。 ”あんどんべや”行灯部屋 灯火道具を置いていた部屋です。 ”ちょうだ”寝室 天井を低く、床を「だいどころ」より高くして、防寒に対応しています。 天井裏(中二階)は寝室や物置として利用されました。 「ちょうだ」とは”帳台(ちょうだい)”から派生した呼称と考えられます。 ”だいどころ”台所・居間 この地方では、かまどの設備はなく、囲炉裏で煮炊きを行いました。一家団らんの場でした。 ”うすなわ”作業場・食料置き場 雨の日や夜なべ仕事で、臼などを据えておく場でした。 「うすなわ」とは”臼庭(うすにわ)”から派生した呼称と考えられます。 ”みずや”水屋 料理の準備をする部屋で、山からの自然の水を水舟にたくわえ、調理に使いました。 *本来”うすなわ”の背面にあったものですが、三溪園に移築されるにあたり、敷地の都合上 配置が変わっています。 ”うまや”馬屋 馬は農作業の大事な動力源で、常時健康状態を監視できるよう、屋内で飼われていました。 (現在は小屋裏が観覧できるよう階段を設置しています) 出入口・小便所 普段はここから出入りし、夜や雨の日用の小便器はここにありました。 *現在小便器は取り外してあります。 ● 旧矢箆原家住宅(接客空間) ”げんかん”玄関 式台玄関という板の間の付随する、代官などの身分が高い人を送迎するための出入で、普段は 使われません。 ”ひろま”広間 玄関に対し床の設えがあります。 外部に面してすずやかな出格子の窓を設けています。 ”なかのま”中の間・・・(右画像/錨(いかり)と櫂(かい)の欄間) 仏間の前室も兼ねています。 海への思いを馳せた錨(いかり)と櫂(かい)の欄間、奥座敷側には扇をあしらった繊細な透かし彫 りの欄間があります。 ”おくざしき”奥座敷・・・(右画像/扇をあしらった透かし彫りの欄間) 床・違い棚・書院がそろった格式ある部屋空間です。 書院は赤漆塗の花頭形を模した凝ったものです。 床柱は正面にわざと節を出しています。 これは、元禄時代、幕府が飛騨地方に檜の使用を禁止したため、禁令を逃れるために節のある 傷材をあえて用いたのではないかと考えられます。 ”ぶつま”仏間・・・(左画像) 飛騨地方は浄土真宗が主です。 この仏壇は寛政12年(1800)11月、鷲見(すみ)治郎右エ門によって作られたことが判っています。 ”ざしき”座敷・・・(右画像) 代官が来た際、着替え室に利用されました。 奥に専用の風呂も付随しています。 隠居の部屋としても使われました。 ”かみせっちん”上雪隠 代官など身分の高い人が使用するための便所。 ● 2階へ むかし屋根裏は養蚕をしていました。 矢箆原家と飛騨地方の民具、1000点が収蔵されていて、2階に展示されています。 ● 茶筅塚 ● (20)田舎屋 石置き屋根の古民家で、由緒は不明。 障子に古い証文や暦、子どもの手習いの反古紙を用い、入口には蓑笠や鍬などをけるなど建物自体 に趣向が凝らされていたばかりでなく、周辺にも季節の野菜を植えた畑や竹林、鶏を入れた籠や井戸 などを配し、田舎の生活を擬似体験できるよな演出が随所に盛り込まれていた。 ● (19)六角堂 正式には”望仙亭”と称されたあずまやで、海や庭園内が見渡せるよう、この付近の高台に建てられ ていた。 その形状と崖上に立つ姿は、中国の山水画を思わせる風情である。 当時園内には、このほか2ヵ所に同様の建物があったが、いずれも現存していない。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |