(画像をクリックすると、大きくなります) << 金亀公園−→石碑/井伊直弼生誕地−→楽々園 >> ● 彦根城を見学後、黒門橋を渡ります。 * (黒門事務所) * (黒門橋) (全景は、パノラマでご覧ください) ● 黒門橋を渡り、左側に行くと「金亀公園(こんきこうえん)」です。 金亀公園は、彦根城(別名金亀城)を含む面積37.9hanの都市公園(総合公園)で、昭和43年度か ら公園整備に着手し、昭和57年度完成しました。 平成元年度「日本の歴史公園100選」に選ばれており彦根市を代表する公園です。 ● 黒門橋を渡り右側に行くと、看板(槻御殿)と石碑(井伊直弼生誕地)が。 槻御殿(けやきごてん) 第4代藩主井伊直興が延宝5年(1677年)に着手し、同7年に完成したもので、下屋敷として築 造され、材木は槻(ケヤキ)でその華麗さは各大名も驚嘆したものである。 大老井伊直弼は、文化12年(1815年)10月29日ここで生まれた。 これらの建物は数棟の東屋(あずまや)よりなり、今日に至るまでしばしば修理が加えられた が往時のおもかげをとどめている。 第12代藩主井伊直亮が文化年間(1804年〜1817年)に楽々之間を増築して以来、槻御殿と いう正式の名よりはむしろ楽々園の名のほうが有名になった。 楽々園の名は、「仁者は山を楽しみ、智者は水を楽しむ」の意からとったといわれ、民の楽を 楽しむという仁政の意をもっているともいわれている。 * (井伊直弼生誕地) ● 標識(←名勝 玄宮園)に従い左折。 ● 楽々園 (別途記載) 旧藩主の下屋敷で、槻御殿の名のほかに黒門外(前)屋敷とも称されたが、現在は楽々の間にち なんで楽々園と呼ばれている。 1677年四代藩主直興により造営が始まり、1679年に完成、その後数回にわたり増改築が行われ 往時には能舞台を備えた広大な建物であったが、現在では書院や地震の間、雷の間、楽々の間 等の一部が残っている。 戦後、松原内湖が埋め立てられて全く景色が変わってしまったが、この屋敷からの内湖の眺めは 伊吹山や佐和山、磯山等を望んで非常に美しかったので、楽山楽水の意かとも思われる。 また「民の楽を楽しむ」という藩主の心を表したものでもあろう。 庭は枯山水で、布石の妙を極めている。 開国の英傑井伊直弼の1815年10月29日に父直中の14男としてこの屋敷で生まれた。 楽々園内は、庭から大広間(書院)と地震の間が見学できますので、左側の通路からお入り下さい また玄宮園(旧大名庭園)へは、別の入口からご入園ください。 * (内玄関) * (御鈴之間)・・・(御次之間)・・・(御小座敷) * (御上段) ● 地震の間(御茶座敷) 江戸時代には、地震の時に逃げ込むための部屋を造った例はいくつかあったらしいが、現存のも のはほとんどない。 この地震の間は、日常、御茶屋敷として使用されていたが、構造の細部を総合的に見ると、最初 から耐震構造の意図のもとに計画されたことは間違いないと思われる。 その根拠となる構造、手法の特色と仕手は、人工的な岩組みによって建築地盤を堅固にしており 柱がどだいに固定されておらず、天井裏で対角線方向に綱が張ってある。 さらには建物全体を軽快な数寄屋造りとし、屋根を軽いこけら葺き、土壁も比較的少なくしている また下部の床組に大材を用いて重心を低くし、地震力を小さくする、基本的な耐震建築の様式を 採用している。 * (右画像/玄宮園より) (全景は、パノラマでご覧ください) ● 玄宮園へ向かいます。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |