(岡山城HPを参考にしました) (画像をクリックすると、大きくなります) |
<< 天守閣 >> ● 天守閣 宇喜多秀家が築いた天守閣は、慶長2年(1597)頃の竣工と言われています。 昭和20年の空襲で焼失。 昭和41(1966)年に鉄筋コンクリート造りで外観は旧状通りに再建されました。 大入母屋造りの基部に、高楼を重ねた望楼型と呼ばれる様式です。 外壁に黒塗りの下見板を張り金箔瓦が彩を添えているため別名「烏城」「金烏城」と呼ばれています 天守閣の西側三分の一は、塩蔵と呼ばれる別の櫓です。 このように渡櫓なしで直接櫓が天守閣に付属している形式を「複合式天守」といいます。 (全景は、パノラマでご覧ください) ● 天守閣へ入っていきます。 ● 天守閣(地階) 戦国合戦絵巻 群雄割拠と下剋上 岡山城天守閣のシャチホコ 天守閣が昭和41年に再建された時に作られたもので、土製の瓦として焼かれた後に、膝を接 着剤にして金箔を貼りつけたものです。 同様のものが現在の天守閣の最上部にも揚げられています。 宇喜多秀家期の岡山城では、主要建物の屋根のうち目立つ個所を中心に、こうした金箔瓦が 施されていたことが、発掘調査の出土品からも窺えます。 なお、当時のシャチは、この復元品より、ずんぐりした形で、金箔を施す個所はもっと部分的で あったとみられます。 池田家鉄砲十人組使用 火縄銃 全長:135cm 鉄砲は天文12年(1543年)種子島に漂着したポルトガル人がもたらしたもので、新式のしかも 強力な武器でした。 この鉄砲は、早くも翌年には近江国友で製造が始められ、その取扱いの簡便さと火気として の強力さから、またたくまに戦国武将の間に普及し、攻撃用武器として弓矢に完全にとってか わりました。 しかも鉄砲の出現は、長篠合戦での足軽鉄砲隊のように軍団構成、戦闘様式を根本的に変 え、武器武具の世界に巨大な影響をもたらしました。 我が国に伝来した火縄銃は、すでに技術的に完成の城に達しており、その後徳川幕府の鎖 国政策もあり、300年余り技術的な進歩はみられませんでした。 ● 天守閣(1階) 備前焼工房で土ひねり体験・土産物屋・茶店などがあります。 ● 天守閣(2階) 池田時代の資料(池田家の調度品や城主直筆の書など)を展示しています。 大名駕籠に乗って記念撮影や城主の間でお殿さまやお姫さまの衣装を身につける体験もできます。 城主の間 岡山城天守閣の二階に「城主の間」があります。 古式の天守閣の特色で、城主の居住の部屋として使われていました。 他に同じ様式のものは安土城 されています。 ● 天守閣(3階) 宇喜多、小早川時代の岡山城の歴史を展示しています。 ● 天守閣(4階) 岡山城の建築の特徴、お城に関するエピソードなどを紹介しています。 ● 天守閣(5階) 戦国乱世の備前を武力統一した実力者・宇喜多直家の歩みを紹介しています。 笠松で製作した「ついたて」 岡山市宮浦に自生していた数百年経た笠松で、昭和44年春製作した「ついたて」 笠松は写真の通り丁度傘を立てた型をした松で、天然記念物に指定されていたが近年松く い虫で枯れた。 宮浦町内会出品 ● 天守閣(6階) 後楽園と岡山市街を360度一望できます。 表書院跡がみえます。 後楽園がみえます。そして右側画像の白い扇型が「昭和天皇御製の碑」です。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |