(名古屋城HPからお借りしました) (画像をクリックすると、大きくなります) |
<< 御殿椿−→不明門−→石垣の刻名−→天守礎石−→天守の石垣−→ −→金城温古録−→乃木倉庫−→西北隅櫓−→御深井丸展示館−→茶席−→不明門 >> ● 4階天守閣を出て不明門に向かうと、門手前右側に「御殿椿」が植えられています。 御殿椿 本丸御殿南側にある銘木「御殿椿」から接木された椿。 3月中旬から4月上旬にかけて八重大輪の白花を咲かせます。 原木は、昭和20年(1945)5月の空襲で本丸御殿ともども火をかぶったが、焼けた幹の下から新芽 が伸び毎年花を咲かせています。 ● 不明門(焼失再建) 土塀の下に設けられた門。 本丸北側と御深井丸をつなぐ門であるが、厳重に施錠され「あかずの御門」と呼ばれていました。 左右には槍の穂先を並べた剣塀が続いています。 昭和20年(1945)に焼失し、昭和53年に復元されました。 ● 石垣の刻名 (わかりませんでした 右の画像はパンフレットから) 石垣工事は天下普請として、西国・北国などの豊臣系大名20名に割り当てられたため、石には担当 武将の目印が刻まれました。 天守は加藤清正の担当であり、「加藤肥後守」などの文字が彫られています。 (広島城の石垣にも多数刻まれています) ● 天守礎石 昭和20年(1945)に焼失した旧国宝天守の礎石。 地階穴蔵の地盤の上に置かれており、巨大な天守を支えていました。 長く焼け跡に残っていましたが、天守閣再建にあたり現在地に移し、かつての敷設状況を再現しま した。 ● 天守の石垣 天守の石垣は、上部が外側にそりだすいわゆる扇勾配であり、石の重みや土の圧力がたくみに分 散されるため、はらみにくく、しかも美しい。 ● 金城温古録 名古屋城に関する江戸時代の記録の中で最も詳細な資料で全64巻からなる編纂者は尾張藩士 奥村得義、 文政4年(1821)に尾張藩の命を受け、天保13年(1842)に起稿し、万延元年(1860)には31巻が藩に 献納されました。 全巻の完成をみたのは明治になってからです。 手習いを教える奥村得義 ● 乃木倉庫 登録有形文化財(平成9年) 乃木希典(のぎまれすけ)が名古屋鎮台に在任していた明治初期に建てられたと伝えられ、だれいう ことなく「乃木倉庫」と呼ぶようになりました。 当建物は、煉瓦造平屋建て旧陸軍の弾薬庫でありました。 昭和20年5月14日の名古屋空襲の際、天守閣、御殿等が焼失しましたが本丸御殿の障壁画や天井 絵類の大半を取りはずしてここに保管していたため被災を免れました。 のちに煉瓦の保全のため白亜塗りにしました。 なお、被災を免れた障壁画等は重要文化財に指定されています。 名古屋市教育委員会 ● 西北隅櫓(重要文化財) 古名は戌亥(いぬいやぐら)。 清洲城天守を移築したと伝えられ清洲櫓(きよすやぐら)とも称されます。 昭和39年の解体修理により、古い建物の材木を一部用いて元和5年(1619)頃に造営されたことが明 らかになり、清洲城天守の古材を転用した可能性が高まりました。 屋根三層・内部三階で、全国でも最大規模の隅櫓です。 ● 御深井丸展示館に向かいます。 ● 御深井丸展示館(郷土の人形・玩具展を開催していました) ● 茶席(書院・猿面望嶽茶席・又隠茶席・織部堂) 4つの茶席が適度の間隔をへだてて配置され、各茶席と庭内へ入る門とは露地で結ばれています。 一般公開はしていませんが、お茶会・結婚式などにも利用できます。 ● 再び「不明門」を入ります。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |