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<< 天守閣2階 3階 >> ● 2階 特別展開催中のみ開場します。 * 天守閣の燃えた日 鴨居玲(かもいれい)作 洋画家鴨居玲(1928〜85)による油彩画。 焼夷弾による火災で倒れる人々と崩れゆく名古屋城を描いています。 昭和20年3月12日、19日から本格的に行われた焼夷弾を用いた大空襲を筆頭とする昭和20年の空 襲は死者約8000人、被災家屋135,000戸という被害を名古屋市にもたらしました。 御三家筆頭尾張徳川家の城下町として繁栄し多くの文化財を有していた当地は、壊滅的な被害を受 けたのでした。 ● 3階 * 自身番 各町内の警備のために設けられました。 火の番にもあたっています。 はじめは地主達自身が番をしましたが、のち雇人にまかせるようになっていました。 * 本屋 江戸、京都、大阪につぐ出版活動が行われていたが、なかでも風月孫助(風月堂)永楽屋東四郎 (東壁堂)が名古屋の本屋(書店)として知られる。 江戸時代後期には、江戸の大店と肩を並べる程の規模となっていました。 「古事記伝」(本居宣長著)や「北斎漫画」(葛飾北斎著)などの刊行が、その隆盛を物語っています * 女乗物 江戸時代後期 名古屋城蔵 黒漆喰・金蒔絵・葵紋・牡丹唐草文 駕籠と通称されるが、江戸時代には女乗物といいました。 前後3人ずつ計6人でかつぐ。 女乗物は、身分によって装飾方法が異なります。 本作品のように黒漆で塗り金の蒔絵で飾り家紋を入れたものは、最上級に位置付けられ、大名 家の子女の婚礼道具として制作されました。 なお男乗物は、将軍用でも飾りはなく、質素でした。 * 長持 長持は、布団や衣類を収納するための木製の箱。 婚礼道具のひとつであり、尾張藩初代藩主義直に春姫が嫁いできたおりには、長持300棹を持 参したそうです。 本資料は黒漆塗の地に金蒔絵で葵紋をあらわしており、徳川家ゆかりの品と考えられています * 本丸御殿対面所 本丸御殿対面所上段の間を、北側から見た様子を縮小して再現してあります。 実際には18畳の広さがあります。 対面所は、藩主と身内などとの対面、身近な人々との応接、宴席の場です。 室内の障壁画には、庶民の生活、京都の寺社などが、おだやかな雰囲気で描かれ、落ち着いた 空間がつくり出されています。 なお、対面所は現在復元工事が進んでおり、平成28年(2016)度に公開予定。 * 祝膳復元(協力/五味貞介氏) 寛政10年(1798)4月、9代尾張藩主・徳川宗睦(1732〜99)は、一橋治国(11代将軍・徳川家斉の 弟)の長男・ト千代(当時6歳、1793〜1850)を養子の迎えました。 それを祝って、5月4日に市ヶ谷屋敷(尾張徳川家の江戸上屋敷、現・東京都新宿区)で「御引移 御式/おんひきうつりのおんしき」が行われました。 その時の献立の記録が残されており、それに基づいて祝膳を復元。 夏の季節感が感じられる献立です。 この翌年の12月に宗睦は死去し、ト千代が10代藩主・斉朝となりました。 * 脇息(きょうそく) 江戸時代 名古屋城蔵 座った時にひじを掛け、からだをもたせかけて休息するために使います。 平安時代にはこのような形のものが誕生。 将軍や大名などが上座で使用するイメージがありますが、実際は私室で使われるものであり公 的な対面などでは使われませんでした。 * 黒漆塗瓠文口薬入れ(くろうるしぬりひさごもんくちぐすりいれ) 江戸時代 名古屋城振興協会蔵 火縄銃用の火薬(口薬)入れ。 通常は湿気を避けるため、容器の全面に赤漆が黒漆が塗られるだけです。 これは金蒔絵(漆で文様を描き、乾く前に金粉を付着させて文様をあらわす技法)で、瓢箪の葉と 実をあらわしています。 * 漆塗梅蜂紋水筒(うるしぬりうめばちもんすいとう) 江戸時代 名古屋城振興協会蔵 江戸時代の水筒は、竹筒を加工したものが一般的でした。 これは漆塗りに金蒔絵で家紋を入れた、贅沢なつくりです。 背面はカーブがつけられ、腰にフイットする形になっています。 * 台所 藩主に供される食事は、御膳所や台所で調理され配膳されます。 台所には篭の大小が並び奥の棚には調理具や食器などの配膳具が整理され置かれています。 台所と藩主が食事をする部屋はかなり離れているために、藩主は温かい料理を味わうことが出 来ませんでした。 * 御用部屋 藩の政務などをおこなう部屋。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |