4:43----------5:30--------------------------------------------------- −−(国道140/県道4)−−富士橋渡る−−(国道52)−身延バイパス−−身延トンネル− −−信号(小田船原・右折)−−信号(久遠寺入口・左折)−−信号(身延立体北/左折)−− −信号(身延立体東/右折)−信号(久遠寺入口/左折)−三門前通過−せいしん駐車場− -----------------------------------------------------------6:25-6:35-- −十如坊(鬼子母神堂)−丈六堂−−大光坊(三光堂)−石柱・丗四丁(八ヶ岳見える)− ---------6:45----------6:51-------7:11-7:17-----------------7:40------- −法明坊(お水屋)−−東照宮−−南側展望台 ------7:59-----------8:01-------8:18 *身延バイパス手前から県道805で行く道がありますが、山の中を走る道(舗装) ですので、国道52で行ったほうが早いです。 所要時間(休憩は含みません) せいしん駐車場〜大光坊(三光堂)・・36分 大光坊(三光堂)〜南側展望台・・61分 (画像をクリックすると、大きくなります) |
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5:30 6:25 |
甲府南IC通過し右折し国道358へ。 すぐ先の信号「笛南中北」で左折(下曽根橋手前)。 笛吹川沿い(国道140)を進みます。 富士橋を渡り左折し、国道52を走り身延町に入り身延バイパスへ。 身延トンネルを抜け信号(小田船原)右折し、信号(久遠寺入口)左折 町中を通り「三門前」を通過し、「せいしん駐車場・有料」到着。 駐車場奥には、久遠寺に行く斜行エレベーターがあります。 *身延バイパス手前から県道805で行く道がありますが、山の中を走る道(舗装)ですので国道 52号で行ったほうが早いです。 |
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駐車場入口の先を登って行きます。 久遠寺裏に突き当たります。 お堂からは日蓮宗の太鼓の音と朝の勤行の声が響いています。 左折し、ロープウェイ駅方面の上の簡易舗装の坂道を進みます。 「本地堂」の所から、五重塔が見えます。 *本地堂 日蓮上人は上行菩薩の権現とする考えがあり、その上行菩薩を御祀した御堂だそうです。 いくつかの墓石の前を通過。 「山梨県指定文化財・上の山八幡神社本殿」方面通過。 *上の山八幡神社本殿 波木井の地で南部六郎実長の鎮守でしたが、片隈沢、久遠寺祈祷堂の地をへて今の地に。 現在は覆屋で保護され、日賢の棟札から慶長3年(1598)の再建と推定。 本殿は二間社、入母屋造、柿葺で、向拝には軒唐破風がついています。『身延山諸堂記』 道脇の石柱(九丁目)・・と書かれ、奥の院まで案内しています。 |
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られていたので参道にもどりました。 *十如坊 (じゅうにょぼう) 鬼子母神神堂御供所。 山之上十如坊が鬼子母神堂を守る。 *鬼子母神堂 日朝上人が伽藍を西谷から移した時に、法界堂同様創建時のお堂の柱を使い明応3年 (1494)に建立したと伝えられる建物。 突き当たり右に「瘡中稲荷大明神」。 *瘡中稲荷大明神 境内に生える草の汁をぬると、できもの・かぶれ等に霊験があると伝えられています。 石碑(十六丁目)「妙心院日奠聖人御廟参道」 「日蓮宗尼僧法団本部」 |
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*丈六堂/上の山 錦の森・黄金釋尊堂 寛永20年(1643)、身延山第26世日暹上人の時代、本山の境内に釈迦堂を建立。 安置されている一丈六尺の釈迦如来立像は、信仰に篤かった徳川家康側室お万の方が 願主となって奉納し、堂内にお方寄進と伝えられる千体仏あります。 釈尊像と堂宇は身延町指定文化財。京都の中正院日護上人が彫刻。 本堂域から28世日奠上人代に現在地に移転。 石垣とスギの木々のある舗装道を登っていきます。 |
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28世奠上人が開創。元は大光庵といい、明治3年(1870)に大光坊と改称。 境内には、「大黒堂」・「三光堂」といった堂宇や「相輪塔」・「釈尊像」・「休憩所」があります。 *大黒堂 寛文2年(1662年)建立し、大黒堂に祀る大黒天は日蓮聖人の御自作と伝わっています。 大黒天は、面白い話があります。 ある時、御堂の修理の為に仏具商を呼んだのですが、見事なお姿に心がくらんだ仏具 師は、真夜中に大黒天の御像を盗んで逃げ去りました。 一生懸命に走り身延山から遠く離れて「もう一安心だ」と一休みし、夜が明け辺りを見 廻すと、なんと大黒堂の縁の下に座っているではありませんか。 仏具師は一晩中、大黒天の御姿を背負い、御堂の周りを走っていたのでした。 仏具師が悔いを改め、御像は無事に戻されました。 これも大黒天に「この地を離れたくない」というお心があったからとのことです。 *三光堂 三光天子を奉っており、1665年(寛文5年)甲府宰相徳川重郷が、子孫繁栄の祈願所と して建立されたお堂です。 三光天子とは、大日天子、大月天子、大明星天子の総称。 太陽、月、星を神格化した名称で、大空にあって我々の生活に最も関係の深い天体です 天から光を もって我々を守り、天界に属すので天子と呼ばれます。 *相輪塔 1781年(天明元年)祖師堂に於いて、日蓮聖人五百遠忌報恩記念に際し、天下泰平を祈 願して三万部のお経を読誦してこの地に建てられました。 尚、この相輪塔は日光と比叡山、そしてこの身延山と、日本に三ヶ所建てられております *釈尊像 釈尊像の由来 このお釈迦様は霊鷲山に於いて百日の御修行をされておられるお姿でございます。 明和9年の建立であります。 昭和41年身延町 文化財指定となる。 |
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少しずつ勾配がきつくなり、石碑(丗五丁目)辺りから雑木が混じり明るくなります。 石碑(丗六丁目)にベンチがあり、石碑(丗七丁目)通過。 小さな橋を渡ると、木に看板(この付近にクマ出没 注意必要)が。 |
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お堂横の「日朗上人井戸由来之碑」には 岩根藤蔓をたよりに攀じ登った五十丁、身延山頂に立たれた日蓮大聖人は、遥かに故郷房 州の空を伏し拝み、亡き父母の菩提を弔い、在りし日の思い出を弟子等に語ろうていられた 時、山登りのお疲れで喉の渇きを覚えられた様子を拝した日朗が水を求めて草木を分け、谷 を下ること十丁余やっと見つけた岩清水???き竹筒に汲み再び山頂へ駆け戻り、大聖人に捧 げると御悦び一方ならず、その水を推し頂いて飲まれ、他の弟子等にふるまわれました。 これより山頂に登る毎に日朗がこの岩清水を汲んで大聖人に捧げたので、後にここを日朗 の井戸と呼び、お堂を水屋と称して日朗上人の師孝を偲ぶ縁となっています。 身延山九十世 日勇 撰書 |
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*上の山 東照宮 徳川家康が亡くなられた時、お万の方が身延に詣でられ法要を営まれた折に造立。 建築年月日 寛永13年(1636年)木造平屋二間の一間半 石碑(四十八丁目)で右に曲がると、上方の木々の間から奥の院関連の建物が見えます。 石碑(四十九丁目)を過ぎると、まもなく「南側展望台」です。 |
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富士山・天子山塊の山々、そして駿河湾・伊豆半島(今回は見えませんでした)、山梨・静岡の県境 ををなす安倍奥の山々を望む事が出来ます。 長者ケ岳・・思親山・・浜石岳は、別途載せてあります。 (画像をクリックすると、大きくなります) |