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* (階段を下ります)・・・(天守四階へ) ● 天守四階 天守四階は三階までの各階とガラリと室内の趣が異なっている。 柱が少なく天井が高い上に、四方から外光が入るので明るく広々とした感じを受ける。 柱・鴨居・長押などはすべて鉋仕上げで、鴨居の上には小壁もあり居室風に設えてある。 敷居がないので建具は用いられていなかったが、幕や屏風で仕切れば入側と二つの部屋に分か れる。 有事の際、六階とともに城主の座所に当てられた場所と考えられる。 * (御座所) ● 松本城二の丸御殿跡の発掘と整備 二の丸御殿は松本城三御殿の一つでしたが、享保12年(1727)に本丸御殿が焼失政庁となり明治維 新をむかえました。 明治1年の廃藩置県の際には筑摩県庁にあてられましたが、同9年に全焼し跡地に松本裁判所が置 かれました。 昭和53年に長野地方裁判所松本支部が三の丸に移転したのを機に、同54年から56年にかけて発掘 調査を行い、同57年から59年には御殿跡の平面標示による復元、さらに周辺整備を行い史跡公園に なりました。 ● 器と食材 出土品は、日常的な生活用具が多く、瀬戸・美濃系の腕や伊万里系の染め付けの皿や茶碗、合子 (こうし)が多く、とりたてるほどの高級品は僅かでした。 これは明治4年の廃藩置県の際に、高価な器物が散逸したと考えられますが、中には舶載磁器の青 磁や染め付け、京焼、織部の皿などの出土もありました。 珍しいものとしては「泉湊伊織」の刻印がある焼塩壷が出土しました。 臼の中で細かくした塩をこの壷の中に入れて、壷ごと焼くとニガリなどが取れて真白な焼塩ができ食 卓塩として使われたのです。 マグロ、タイ、ブリ、スズキ、コイなどの骨やアワビ、サザエ、アカガイ、ハマグリなどの魚介類やカモ、 ヤマドリなど鳥類の骨が出土しました。 御殿ではこのような食材を使い、どんな献立の食事をしていたのでしょう。 ● 松本城二の丸御殿絵図 部屋数は約50、建坪約2176uで、表向きと奥向きの部屋割りがされています。 享保12年(1727)本丸御殿焼失後は政庁となりましたが、その後二の丸御殿だけでは手狭となったの で、六九町など三の丸にも役所を移しました。 ● 平面に表された二の丸御殿 発掘調査と「二の丸御殿之図」に基づいて間取りを決定し、畳は芝生、板の間はカラーアスファルト、 土間はグレイ舗装などに分けて平面表示による整備がされ、観光客や市民の憩いの場所として親し まれています。 * (松本城二の丸御殿絵図)・・・(平面に表された二の丸御殿) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |