(3)天守下門跡

                     


                        (画像をクリックすると大きくなります)
   

     << 天守丸への登城路−→腰櫓台跡−→腰曲輪方面−→

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  ● 天守閣に向かって階段を登ります。

                         


    * (右画像/太鼓櫓)

                          


  ● 天守丸への登城路
       何度も折り曲げた狭い階段は、敵の侵入に備え登りにくくなっています。
       復元された階段や側溝のうちゆるやかな曲線を描く玉石側溝は、調査で見つかった江戸時代後期
       のものを生かしています。

          


  ● 腰櫓台跡
       敵の侵入に備え、広い範囲が見渡せる櫓がありました。
       調査では、腰櫓に登る石段が見つかりました。

                       


  ● 腰曲輪方面へ

                  


                  


                  


  ● 腰曲輪跡
       天守丸と十露盤掘の間にあった曲輪で、2つの櫓と井戸がありました。
       明治中頃、十露盤掘を埋め立てるために削られていました。

                       


                             


  ● 再び階段を登ります。

                         



    * (ふり返ると・・・)

 


  ● 天守下門跡
       天守閣へ入るための二層の櫓門がありました。
       調査では、櫓をのせていた基壇の石垣が見つかりました。

                        


                  


                             


    * (振り向くと)・・・(太鼓櫓)・・・(御殿)

                  


  ● 天守丸
       天正18年(1590)山内一豊が入城する以前は、本丸として使われていました。
       一豊によって城域が拡張されると、天守閣を配置する独立した曲輪になりました。

  ● 霧吹き井戸
       永禄12年(1569)徳川家康は、今川氏真の立てこもる掛川城を攻めました。
       この時、井戸から立ち込めた霧が城をつつみ、家康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。
         霧吹き井戸について
           1522年に井戸が掘られました。(約1年かけて掘られている)
           日本第3位の深さといわれます。(深さ45mあります)
           今川氏真が立てこもる掛川城を徳川家康が攻めた時、井戸から立ち込めた霧が城を包み家
           康軍の攻撃から城を守ったという伝説があります。  *別名 雲霧城とも言われます。
           この井戸は昭和35年位まで使われていた。
             (戦没者慰霊塔があって、それを護る庵守様の庵が天守丸にあり、その方が使っていた)
           室町時代の有名な連歌師宗長(今川の家臣1448〜1532)が掛川城初期の事を書き留めてあ
           った。
              1番 丸亀城(香川)・・・65m     2番 福知山城(京都)・・50m
              3番 掛川城(霧吹き井戸)・45m  4番 松山城(愛媛)・・・42m

    * (天守閣建設前の霧吹き井戸/昭和35年位まで使用)

                     


                  



                        (画像をクリックすると、大きくなります)


                               ● (入口へ) ●

 

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