(1)大手門

                     


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  ● 掛川城大手門
       掛川城大手門の復元について
          この門は掛川城 の城内に入る最初の門として天守閣と共に掛川城の威厳を示すに相応しい最
          大の門です。
          天正18年(1590)より慶長5年(1600)まで在城した山内一豊 が中町に開かれた松尾口の大手筋
          を連雀町に移して大手郭を造り、その正門として設けたものです。
          建物は楼門造りの櫓門で間口は7間(約12.7m)、奥行は3間(約5.4m)、棟までの高さは3尺5寸(
          約11.6m)、二階は漆喰塗篭造りで格子窓付の門櫓をおき、庇屋根を付けています。
          一階の中央には1間半両開き(巾約2.4m、高さ約4.3m)の門扉、左側に1間(巾約1.2m、高さ約
          2.2m)片開きの通用口の潜り戸を設けています。
          鏡柱は2尺2寸(約66cm)に1尺5寸(約45cm)もあり、冠木、梁、垂木等も総て大きな木材を用い
          た壮大な造りです。
          冠木下の高さが14尺6寸(約4.4m)もあるのは乗馬のままで通行出来るためです。
          嘉永の地震(1854)で倒壊し安政5年に再建されましたが、明治になって廃城になり民間に払い
          下げられ火災に遭い焼失しました。
          元の位置は連雀町裏の堀を渡ったところ(交差点南、道路表示部分)で、区画整理事業により
          基礎の根固石を発掘調査し規模を確認しましたが、元の位置では道路と家屋に支障を来たし
          止むなく50m北側に創建当時の姿に復元しました。
          この発掘で門を囲む桝型の築地と共に番所の遺構も発見され、移築保存されていた大手門
          番所を旧地と同じ位置関係に全体的に復元しました。
          大手門から見る天守が一番美しいといわれます。
          この付近から大手門と共に天守をご観賞ください。        掛川市

                  


                  


                             


                             


                          


                             


  ● 掛川城大手門礎石根固め石(そせきねがためいし)
       掛川城大手門は、二層式の櫓門(やぐらもん/楼門)でした。
       大きくて重量のある門ですから、傾いたりしないよう基礎工事に工夫が凝らされていました。
       これが、平成5年(1993)の発掘調査で発見された門の基礎部分「礎石根固め石」12個の内の一つ
       です。
       直径2m深さ1m50cmくらいの大きな穴に、40cm前後の河原石を円形に4〜5段積み重ね、その上
       に門柱の礎石が置かれていました。
       この根固め石は、新しく作られた道路に現地保存できないので、そのままの状態で取り上げました

                              


                  


  ● 掛川城大手門番所
       大手門番所は、城の正門である大手門の内側に建てられ、城内に出入する者の監視や警備をする
       役人の詰所です。
       嘉永7年(1854)の大地震で倒壊後、安政6年(1859)に再建されたのが現在の建物です。
       明治初年、掛川藩の廃藩に際し、元静岡藩士谷庄右衛門が居宅用として譲り受け、別の場所に移
       築しましたが、昭和53年(1978)に谷家より市へ寄贈されました。
       大手門に付属した番所が現存するのは全国的にも珍しく、昭和55年(1980)、市の文化財に指定さ
       れました。
       発掘調査により掛川城大手門と番所の位置が正保年間頃(1644〜1647)に描かれた正保城絵図
       のとおりであることが明らかになったので、平成7年(1995)周辺の区画整理により、本来の位置か
       ら約50m北に大手門を復元することにともない、それに合わせて番所を配置し、現在地に移築・復
       元しました。

                          


  ● 三光稲荷
       三光稲荷は、名馬の誉れの出世で有名な山内一豊公が掛川城主として文禄年間に城と城下町の
       大改築を行われたが、丁度この時期に豊臣秀吉の命で伏見桃山城の築城に加わった御縁で大手
       郭と大手厩の鎮守として伏見稲荷を勧請されました。
       三光稲荷の由来は南北朝(吉野朝)時代のはじめの延元元年、後醍醐天皇が京都の花園院から吉
       野へ御幸をされる12月21日の深夜暗闇から難渋され途中伏見にさしかかり稲荷大社の御前で、
          ぬばたまの くらき闇路に 迷うなり   われにかさなん みつのともし火(三の光)
       と、御製を詠まれ、道中の安全と神助を祈願すると不思議に明るい一群の雲が現れ御幸の道を照ら
       して無事に大和へ導かれたという故事があり伏見大社の本殿の脇には御製の碑が、吉野山金峯山
       には「導稲荷」があり東京新宿三光町の花園神社(三光稲荷)は吉野より勧請されたといわれこうした
       御利益から大手厩の構内にお祀りされました。

                  


                                 


  ● 掛川城天守閣に向かいます。

                  


  ● 正保絵図
       正保元年(1644)、徳川幕府は全国の城郭監理の一環として、諸大名に城絵図の提出を命じました。
       これが正保絵図と呼ばれるものです。
       堀の幅・深さ、土塁の高さ、石垣の高さ、櫓・塀の状況、城下町の町割り、街道などの軍事に関わる
       施設が詳細に記入されています。
       この絵図と実際の城の様子とが違っていると、その大名家は幕府により所領が没収されたり、お家
       断絶とされたことからも当時の城の様子が正確に描かれたと考えられます。
       登城路、三日月堀などの発掘調査によっても、絵図の正確さが確認されました。

                  


                  


                             


  ● 蓮池

    * (辨天橋)

                  


    * (辨財尊天)

                         



        



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                                ● (入口へ) ●


 

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