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<< 大目付−→御用部屋−→張役所−→賄方−→御談の間−→黒土塁 >> ● 大目付 藩内の監察、警備などを主要な任務とした大目付の部屋です。 ● 御用部屋 城主への用件の取り次ぎや身辺の警固をする役人が控えていた部屋です。 * (中庭がみえます) 廊下先の左側に展示物があります。 *棟札 (左)掛川城大手門棟札/安政5年 (中)掛川城御殿棟札/重要文化財 安政2年 (右)掛川城御殿棟札/重要文化財 文久元年 ● 左折すると「張役所」があります。 張役所・・・・邸内の警備を任務とする役人が使用した部屋です。 ● 賄方・・・藩内の経理事務の処理をした部屋です。 *獅子舞かんからまち 掛川祭りの大祭(3年に一度)に、瓦町から獅子舞「かんからまち」が龍尾神社に奉納されます。 戦国時代に朝比奈備中守が掛川城築城した時、牛頭天神社に獅子舞を奉納、江戸時代中期よ り牛頭天王社(現・龍尾神社)祭礼で行われています。 一人立ちの獅子舞に名があり「龍」「尾」が雄、「山」は雌で、二匹の雄獅が雌獅に求婚して競い あい神前で和合する舞だそうです。 この三匹獅子舞は関東から東北地方にかけてありますが、静岡県では掛川が唯一だそうです。 *木獅子 この獅子は室町時代掛川城の城主朝比奈氏から城下の鎮護として下付された三体の獅子のう ち一体といわれている。 また江戸時代城中において土足のまま舞を許された格式のある獅子ともいわれている。 平成8年3月市有形民族文化財に指定。 所有者 紺屋町区 *御殿賄方使用 槌目打銅製やかん 重量11キロ 容積2斗(36立) *行器(ほかい) 外居とも書く飯、餅、赤飯、饅頭などの食物を入れて運ぶ器名称は物見遊山にたずさえるから(外 居)と説かれている「保元物語」によれば、首を入れるのに首桶の代わりに足行器を用いた。 寄贈者 下里木飛鳥 荒川隆馬氏 *大名行列 江戸時代の寛永12年(1635年)、将軍家光のとき、幕府は諸国の大名を統制して中央集権の実 を挙げる手段として武家諸法度で参勤交代を制度化し1年在府、1年在国、妻子は江戸に住まわ せることを義務づけました。 参勤交代のため、諸大名は家の格式に応じた行列を組みました。 享保6年(1721年)の規定によれば10万石クラスの大名の場合、士分10騎、徒士(かち)・足軽80 人、中間・人足150人、計240人くらいと定められていましたから、実際に行列を組む場合の人数 は、これを上回るものであったと伝えられています。 この大名行列は、掛川城天守閣開城1周年を記念して、お城の膝元である掛川第一小地域生涯 学習センターの女性学級が中心となり、「大名行列をつくる会」(榛葉フジ代表他32名)をを結成し、 倭紙(わし/和紙)人形家である鈴木晶子先生(掛川市出身、現豊田町在住)の指導のもと大名行 列の再現に取り組みました。 裃(かみしも)は掛川特産の葛布を使用しています。 華やかにするためこの行列には、姫様道中を加え中間・人足部分をごく一部にして、167人の行 列に整えています。 ● 御談の間 藩へ用事のある者の用件の取り次ぎや談合、会議などの際に使用した部屋です。 ********************************* ● 黒土塁 この黒戸塁は非常に高く、外部から二の丸御殿を隠す目的で作られたものです。 このように、外から隠すための土塁を「黒戸塁」と言います。 御殿の東北側に小山があって、その上に物見の松があったと言われています。 その小山は土塁と続いており、そこには門があったと思われます。 また、「粋な黒塀、見越しの松に・・・」という唄がありますが、黒塀は必ずしも黒く塗ってある塀ではな く、外から内部を隠す目的の塀のことを言います。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |