<< 天守閣1階 四戦場の図−→藍韋威腹巻−→桟唐戸−→軒平瓦−→軒丸瓦−→棟込瓦−→鎧 −→石落しの間−→内藤丈艸−→鯱瓦−→上段の間−→武者かくしの間−→犬山城模型 >> ●● 天守閣1階 ●● 中央部に第一の間、第二の間、上段の間、納戸の間の4室に分けられ、それらを武者走が取り巻 いています。 反時計回りで見学することにします。 * (南東隅の突出部にあたる付櫓の部分) * 四戦場の図 滝秋方画伯筆 長湫(長久手)合戦 関ヶ原合戦 姉川合戦 簗瀬合戦 天正12年(西暦1584年)小牧長久手合戦の際、秀吉は3月21日、12万5千の大軍を率いて大阪 城を進発、27日この犬山城に入城、小牧山に陣を布いた家康軍を対戦した 犬山城を描いた絵の中で一番古いもので図の中に犬山城は「秀吉の御陣城」と記されている これの原画は山鹿素行と並ぶ軍学者有沢永貞の作で延宝から元録年間にかけての作品で現 在金沢兼六園内に秘蔵されている * 藍韋威腹巻 * 犬山城天守閣 桟唐戸 台風と大雨により、天守閣最上階の扉が破損したため、平成21年1月から6月にかけて修理を行 いました。 この扉は、修理で取り替えた框や板を用いて、展示用に組み直したものです。 破損が著しく、使用に耐えられなかったので、そのほとんどを取り替えざるを得ませんでしたが貴 重な文化財の一部として、展示することにいたしました。 このような形式の扉を桟唐戸といい、材料には桧が用いられています。 大部分が昭和39年(1964年)の大修理で新調されたものですが、横桟の1本には明治29年(1896 年)の年号が記されており、それ以前の部材も含まれていることが確認できました。 * 軒平瓦 この瓦は、平成21年度に実施した犬山城の調査で出た瓦です。 * 軒丸瓦 軒に葺かれる瓦は、紋様(瓦当紋/がとうもん)によって、時期を推定できます。 詳しくは今後の調査によりますが、これまでに犬山城で発見された瓦で古いものは、安土桃山時 代の頃のものと考えられます。 また、成瀬氏が城主となった江戸時代のものも多く見つかっています。 これら天守付近で見つかった瓦は、自然災害によって落ちたり、葺き替えや修理の際に捨てられ たりしたものと考えられ、天守の歴史を反映しているといえます。 * 棟込瓦(桐紋) 犬山城にはこれまでにも桐紋の瓦が見つかっていましたが、平成21年度の調査においても桐紋 の瓦が確認されました。 桐紋の瓦は豊臣秀吉が一部の武将にのみ使用を許可していたものです。 そのため、犬山城は桐紋の瓦を葺くことが認められた重要な城であったといえます。 犬山城には1590年代に、秀吉の甥にあたる秀次(ひでつぐ)の親族が城主であったことが分かっ ており、桐紋瓦はその頃のものではないかと推測されます。 * 鎧 * (小牧山合戦着用 所有者/犬山市本町 旧犬山藩士・遠藤関雄氏) * (旧成瀬藩 御殿医鈴木家着用鎧 寄贈者/東京都渋谷区神宮前 鈴木次) * (鎧 所有者/犬山市中本町 旧犬山藩士・金森治樹氏) * 石落しの間 この位置は西北のすみにあたり、石落しの間といいます。 石を落して侵入者を防ぐ間で石垣より外に突出しているのが特徴です。 広さ 7.17平方メートル(4畳余) * 犬山城は別名「白帝城」という。 江戸時代の儒学者荻生徂徠(おぎうそらい)が李白の詩からとって命名したと伝えられる。 李白の詩にいう白帝城は長江の上流四川省の山地にある 早(つと)に白帝城(はくていじょう)を発(はつ)す「唐(とう)」李白(りはく) 朝(あした)に辞(じ)す白帝 彩雲(さいうん)の間(かん)千里(せんり)の江陵(こうりょう)一日(いち じつ)にして還(かへ)る(りょうがん)の猿声(えんせい) 啼(な)き住(や)まざるに 軽舟(けいしゅう) 己(すで)に過(す)ぐ 万重(ばんちょう)の山 * 内藤丈艸(ないとうじょうそう) 丈艸 陶像 元禄の俳人内藤丈艸は寛文2年(1662年)犬山藩の武士内藤源左衛門の長子として生れこの 秀麗なる日本ラインの山河に育れて人となった27歳の時感ずる所あり遁世して郷里を去り京 都に出て、俳聖芭蕉の門に入り 讃夛年其道に徹して蕉門十の第一人者になった 元禄7年(1698年)師芭蕉の死に會して近江國粟津竜ヶ岡に庵を結び3年喪に服していたすら 追福を祈っていたが、病の為43歳を以て遷化す此城正門際にある句碑涼しさを見せてやうこ く城の松丈草丈艸250年祭記念として建立する。 昭和28年11月28日 丈艸顕彰會 * この鬼瓦は、天文6年(西暦1537年)犬山城築城当時に使用した瓦で、慶長年間城を修復した時に取 替えた鬼瓦であります * 鯱 倉知伊右衛門が九代目成瀬正肥から廃藩置県の折櫓を取りこわした時に贈られた鯱 贈り 小牧市岩崎 梅津 孝 * 鯱この鯱瓦は、今回(昭和36年から昭和40年3月)解体時に取替たものです * 上段の間 ここは殿様が使用した部屋で上段の間といいます。 床が一段と高くはられ、この部屋だけが猿頬天井(サルホホテンジョウ)が張ってあり、この 城の最上の室となっています。 この奥に武者隠しの間があり、殿様を守る武士が待機しておりました。 * 武者かくしの間 城主の座居の際護衛の武士がかくれて居た部屋 * 天守閣の規模と構造 構造形式・・・独立天守閣・外観・・・三重 内部四階地下二階付 天守の建て坪・・360.353平方メートル・総延面積・・・698.775平方メートル 石垣の高さ・・・地上5メートル・天守の高さ・・石垣から19メートル 地上からの高さ・・24メートル * (明治維新前の犬山城/模型図)・・・(明治2年頃の大手門)・・・ ・・・(明治2年頃の犬山城/宮田正治所蔵写真の複写) * (明治2年頃の犬山城/宮田正治所蔵写真の複写) ● 天守閣2階へ (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |