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<< 拝殿−→本殿−→ふくろう−→本地堂−→広島みこし行列「通り御祭礼」復元記念−→ −→東照宮ジャンボ釜の由来−→大神輿−→自動車お祓所 >> ● 拝殿(はいでん) 本殿同様、昭和20年8月6日の原子爆弾により焼失したため、現存の建物は昭和40年4月、350年 の式年大祭を記念して再建されたものです。 ● 本殿(ほんでん) 一間社流造。唐破風付、銅板葺となっています。 昭和20年8月6日の原子爆弾により、爆心地より2,300mの地にあったため、当時桧皮葺であった華 麗な社殿は焼失し、灰塵に帰しましたが、ご神体は焼失を免れ、無事であったことは、奇跡と言うほ かありません。現在の建物は、昭和59年に再建されたものです。 ● ふくろう 〜森を大切に フクロウはみています〜 梟(ふくろう)や青葉ずくは「吉祥の鳥」、古くは古事記に記されています。 東照宮の森(約1万坪)には昔からこれらフクロウ科の鳥が棲息し、今でも夏頃には一晩中「ホ ーホー」と鳴き声が聞こえます。 二葉山は豊かな伏流水で森がよく繁り、餌となる小動物も沢山いるからでしょう。 このセンダンの木(樹齢約80年)のほら穴(高さ8m)には毎年、梟や青葉ずくが産卵し2羽位の雛 を育て、多くの若鳥が巣立ちました。 しかし、平成18年の春、突然木が枯れて伐採、「梟の巣穴」として保存しました。 鳥たちは何処に行ったのか。 二葉山がいつまでも棲み良い森であればと願っています。 広島東照宮 ● 本地堂(ほんじどう 広島市指定重要有形文化財) 江戸初期、慶安元年(1648)の造営。宝形造。 当初、徳川家康公の本地仏である薬師如来が祀られていましたが、明治以降は、神輿舎に転用し ました。 今では数少ない神仏混合時代の遺構で、「総朱漆塗」「四方の中備(なかぞえ)に極彩色の蛙股」「 屋根の四隅の鬼瓦」「頂の宝珠」などが特徴です。 昭和59年3月修理漆塗装し、当時の姿に復元しました。 堂中には大神輿(重要文化財)あります。 広島東照宮 ● 広島みこし行列「通り御祭礼」復元記念 広島東照宮は江戸時代初期の慶安元年(1648)時の藩主浅野光晟公により創建され 平成10年 (1998)創建350年を迎えた よって同年11月8日かつて城下町広島の伝統行事として50年ごとに行われた広島みこし行列「通 り御例祭」を183年振りに復元して 饒津神社から当宮へ還御し式年大祭を執り行った 行列には450余名が参加し沿道は5万人の観客で埋まった。 なお当二百貫神輿は慶安年間の作 原爆で破損したが焼失は奇跡的に免れた ここに「通り御祭礼」の復元を祝し記念碑を建てる 平成11年11月吉日 ● 東照宮ジャンボ釜の由来 1 容量・・2.160リットル(ドラム缶約12本分) 1 重量・・1トン 1 材質・・鋳鉄 1 ジャンボ釜雑煮・・大晦日と元旦 1 由来 古代から中国山脈に産する砂鉄は「鈩技法(たたらぎほう)」により玉鋼として日本刀に、一方 鋳鉄として、鍋、釜、風呂釜の製造に用いられた。 この大羽釜はまわし形という手法で型が作られ鋳造された。 今ではこの技法を伝える人は無いと云われる。 かつて全国で風呂釜の8割を生産して鋳物王国といわれた広島の伝統を伝えるため、市内可 部町の大和重工(株)で復元され昭和61年当宮に寄進された。 東照宮社務所 ● 大神輿(おおみこし 広島市指定重要有形文化財) 大神輿は、東照宮が創建された慶安頃(1648〜51年)の製作。 檜材に黒漆および金梨地塗りの華麗なものです。 神輿は、重さ二百貫(約800kg)で、50人で担ぐとされています。 幸いにも原爆での焼失を逃れ、現在神輿蔵に納められています。 平成27年10月10日の「通り御祭礼」では17年ぶりに町へ繰り出しました。 ● 自動車お祓所 (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |