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<< 石鳥居−→原爆慰霊碑−→原爆65周年追憶碑−→唐門−→翼廊−→ −→楓樹−→東照宮手水舎−→東照宮御供所−→社務所−→参集殿 >> ● 石鳥居の右脇には、金光稲荷神社の石碑もあります。 石鳥居 慶安元年、三次藩主浅野長治(広島藩2代藩主光晟の伯父)により寄贈された鳥居です。 * (石鳥居)・・・(石碑/金光稲荷神社) ● 原爆慰霊碑 「昭和二十年八月六日の原爆により罹災者境内に溢れ救護所設けらる。 偶境内に湧井在り。 この清水を飲みて幽明異にする者多し。 寔に哀愍の情に堪えず。 茲に慰霊碑を改建して永 く哀史を傳えんとす。 昭和四十一年八月五日 東照宮宮司 久保田幸重誌」 ● 原爆65周年追憶碑(げんばく65しゅうねんついおくひ) 原爆文学家の原民喜は、原爆投下の翌日を広島東照宮で過ごしました。 原民喜が文学に残した思いを後世に伝えるため、平成22年8月6日、追憶碑を建立しました。 「コハ今後生キノビテコノ有様ヲ ツタヘヨト天ノ命ナランカ 原 民喜 平成22年8月6日 広島市長 秋葉忠利書」 原爆被災時のノート 原 民喜 (前略) 東照宮ノ欄間ノ彫刻モ石段ノ下ニ落チ、 燈籠ノ石モ倒レルアリ。 隣ノ男 食ヤ水ヲ求ム。タグレトナレバ侘びシ。 女子商ノ生徒シキリト水ヲ求ム。 夜ハ寒々トシテ臥セル地面ハ固シ。 翌朝目ザメテ肩凝ル。 (中略) 石段下ノ涼シキトコロニ、 一人イコフ。 我ハ奇蹟的ニ無傷ナリシモ、 コハ今後生キノビテ コノ有様ヲツタヘヨト天ノ命ナランカ。 (後略) 五年後 原 民喜 竜ノ彫刻モ 高イ石段カラ割レテ 墜チ 石段ワキノ チョロチョロ水ヲ ニンゲンハ来テハノム 炎天ノ溝や樹ノ根ニ 黒クナッタママシンデイル 死骸ニトリマカレ シンデユク ハヤサ 鳥居ノ下デ 火ノツイタヨウニ ナキワメク真紅ナ女 ● 唐門(からもん/広島市指定重要有形文化財) 日光東照宮での陽明門に相当します。 中央には「長尾山」という額が掲げてあり、門の形式は一間一戸向唐門で唐様の様式です。 門の左右には翼廊が取り付けられています。 昭和20年8月6日の原子爆弾の爆風により、全体が北東に少し傾いていましたが、平成20年度から 23年度まで4ヶ年かけて保存修理工事を行い、ほぼ創建当初の華麗な姿に復原されました。 ● 翼廊(よくろう/広島市指定重要有形文化財) 唐門の左右に十間ずつ建てられている切妻造で、対照的に和様を主体とした簡素な構えです。 戦後、屋根が桟瓦葺となっていましたが、平成20年度から23年度まで4ヶ年かけて保存修理工事を 行い、本瓦葺となり、ほぼ創建当初の華麗な姿に復原されました。 ● 唐門(拝殿方面から) ● 楓樹(ふうのき) 広島東照宮 創建350年 記念樹 徳川8代将軍吉宗公ゆかりの秘木で、皇居吹上御所の庭園に生存、その種子を昭和天皇が日光 東照宮に下賜、育成し成木となり、当宮に2本おくられました。 まんさく科 台湾中国に自生する落葉喬木・日本へは享保年間(1720〜30)中国より伝之栽植 せらる。 日本植物図鑑 ● 東照宮手水舎(広島市重要文化財) 江戸時代、慶安元年(1648年)時の広島藩主浅野光晟(みつあきら)公により造営されました。 「総朱漆塗」「蛙股の月と兎」など桃山時代の建築様式をよく伝えています。 建物の中央に据えられた手水鉢には「御宝前、東照宮、慶安元年卯月十七日」という文字が刻ま れます。 昭和54年12月、解体修理漆塗装し、当時の姿に復元しました。 広島東照宮 ● 東照宮御供所(ごくうしょ/広島市指定重要有形文化財) 入母屋造。 神に供える神饌をととのえる厨房として使われていました。 内部は四室に区切られ、東北の間には一間四方の上段の間(調理した供物の仮置きの間)がありま す。 独立した建物としての御供所が現存している例は、全国の東照宮でも多くありませんが、そのなかで も最古のものとして貴重なものです。 原爆50周年記念事業として、広島市の補助により、また、東照宮創建350周年記念として平成9年4月 に解体修理しました。 平成9年4月16日 広島東照宮 ● 社務所 ● 参集殿 * (社務所)・・・(参集殿) (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |