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<< 百間廊下 >> ● ワの櫓 ● 百間廊下(ひゃっけんろうか/入口はワの櫓です) 西の丸を囲むように築かれた長屋は長さが約300mもあるので、とても長いという意味で「百間廊 下」とも呼ばれ、建物内は城外側が廊下、城内側が部屋になっています。 そのうち、ヨの渡櫓には廊下に面して納戸のある小さな部屋が並んでいました。 これが長局で、西の丸御殿で働く女中の住んだ部屋とみられます。 また、この建物には、城外からの攻撃に対する防御機能もありました。 城の西側は山がすぐ近くに迫っているため、防御上の弱点でした。 そのため、城外側(西)に向けて格子窓や狭間がいくつも備えられました。 格子は、木芯に鉄板を張りその上から漆喰を塗り込んで頑丈に造られています。 戦時には廊下に鉄砲隊を配備すれば強力な防御線となり、雨天でも火縄銃で射撃ができる利点 がありました。 通常は部屋を倉庫として使用し、戦時には家臣の家財道具や家族を避難、収容することもできま した。 一見すると特徴がなさそうですが、実は姫路城の防御力を現している建物なのです。 * (多くの小学生達と一緒に・・・) ● 千姫ゆかりの西の丸櫓群 ワの櫓から化粧櫓まで約240m。 とても長い廊下が続いているこの長屋群を「百間廊下」と呼んでいます。 2階建の櫓と櫓の間は、渡櫓と呼ばれる長屋で結ばれており、別名多聞櫓とも呼ばれます。 ”天守の無い城はあっても、多聞櫓の無い城は無い”といえるほど、江戸時代の城郭に不可欠な 建物です。 倉庫にも住居にも、さらに防御施設として機能する上、構造も単純で解体して移築することも容易 でした。 「百間廊下」も場所によって構造に違いがあります。 西の丸に本多忠刻の御殿があった時期、局として使用されたのはヨの渡櫓から北側の長屋と考 えられます。 ● 「百間廊下」の特徴 ○レの渡櫓 廊下がなく、倉庫として利用されていたようです。 ○タの渡櫓 潜り戸付扉があり、そこから北側は廊下がつきます。 ○ヨの渡櫓・カの渡櫓 各部屋に納戸が付属、天井が張られるなど、人が住みことを想定した造作になっています。 * (西の丸櫓群) * (歴代城主榊原家)・・・(歴代城主松平家・歴代城主本多家) 軒瓦 榊原家の家紋である源氏車紋をかたどった軒丸瓦と滴水瓦。 分限帳(ぶんげんちょう) この帳面は、本多忠国の家臣の名前、禄、役職などを記したもの。 天和2年(1682)から宝永元年(1704)の時期の本多家の家臣団構成がわかる。 ● 埋門(うずめもん) 敵が侵入してきたとき埋めて、敵をこれ以上入れさせない仕組みだそうです。 ● 石落し 石落しは、櫓、城門、土塀などに設けられる防御のための設備で、下に迫る敵の監視や攻撃を行 うための防御設備です。 建造物の外壁や塀の一部を張り出し、床面の開口部には蓋を設けて、主に鉄砲、槍、矢等で攻撃 をすることができます。 ● 雨水抜き 姫路城の天守、櫓の窓の下部に、斜め下向きに筒状の突起物が並んでいるのが見られます。 これは雨水を外部に排出するための雨水抜き(パイプ)です。 敷居にたまった雨水を速やかに排水することで、木部を乾燥させ、腐食から守る役割を果たしてい ます。 ● 狭間 狭間は、鉄砲や弓矢を放つために土塀や櫓等の壁面に開けられた開口部です。 円形、三角形、正方形のものは鉄砲狭間(銃眼)、縦長の長方形のものは矢狭間です。 西の丸の櫓群には、長方形、正方形の狭間が設けられ、外側に漆喰を塗った木の蓋が付けられ ています。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |