(12)太鼓櫓→三国堀

                



                  



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   ● 太鼓櫓(への櫓)
        時刻を知らせる太鼓が置かれている太鼓櫓です。
        上山里曲輪と東曲輪を区切る要所にあります。
        北に接するりの門からは「慶長4(1599)年」の墨書が見つかっており、池田時代以前の建物の可能
        性があります。

                  


   ● りの門
        秀吉の妻・北政所(おね)の兄で、一時、姫路城主となった木下家定によって建てられたと伝えられ
        ます。

               


                             


                                  


     ここは二の丸で、振り向くと、備前丸の石垣、大天守や太鼓櫓がみえます。


                  


                              


   ● お菊井戸
        この井戸は、播州皿屋敷の怪談でで知られる「お菊井戸」といわれています。
        永正年間(1500年頃)、姫路城主小寺則職(こでらのりもと)の執権青山鉄山は町坪弾四郎(ちょうの
        つぼだんしろう)と語らい、城を奪おうと企てていました。
        則職の忠臣衣笠元信(きぬがさもとのぶ)は、お菊を青山家に女中として住み込ませ、その企てを探
        らせました。
        則職暗殺を探知したお菊が元信に知らせたため、則職は家島(姫路市)に逃げて殺されずにすみま
        したが、城は鉄山に乗っ取られました。
        お菊の動きを知った弾四郎は、お菊を助ける代わりに結婚を強要しました。
        元信を慕うお菊はそれを拒みました。
        弾四郎はそんなお菊を憎み、青山家の家宝の10枚揃いの皿の1枚を隠し、その罪をお菊にかぶせ
        て責めあげました。
        その後、毎夜この井戸から「1枚、2枚、3枚、・・・9枚」と9枚目まで何度も数えるお菊の声が聞こえ
        たといいます。
        やがて元信らが鉄山一味を滅ぼし、お菊は「於菊大明神/おきくだいみょうじん」として、十二所神
        社内に祀られました。

                      


                         


   ● りの一渡櫓は修理中です。

                  


   ● 大天守の鯱展示
        大天主の鯱
          瓦葺屋根の大棟の両端につけられている飾りの一種で、鬼瓦と同様に守り神とされました。
          姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に上を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像
          上の動物を模しています。

                  


       明治の鯱
          5代目の姫路城大天守の鯱です。
          昭和の大修理の際に、大天守の東側に上がっていたものです。
          全国的な傾向として江戸中期以降の鯱は耐久性に乏しいため、新しい鯱と入れ替えました。
          銘文には万延元年(1860)製作と記されています。
       昭和の鯱
          6代目の姫路城大天守の鯱です。
          昭和の大修理の際、大天守の二重の屋根に、貞享4年(1687)の銘のある小型の鯱が発見され
          ました。
          これは姫路城に現存する最も古い鯱と考えられたために、これにならい大天守五重の大型の
          鯱を含め11の鯱が復元されました。
       平成の鯱
          7代目の姫路城大天守の鯱です。
          平成の修理では大天守最上層の2尾の鯱が取り替えられましたが、これは山本瓦工業株式会
          社から寄贈された同型の鯱です。
          平成23年(2011)11月に造形に着手し、充分に乾燥させた後焼成し、翌年2月に完成しました。
          形は昭和の鯱を忠実に再現しています。

    * (明治の鯱)・・・(昭和の鯱)・・・(平成の鯱)

                            



    



             



                      



   ● ぬの門(ぬのもん)
        門の両側に石垣を築き、その上に櫓を乗せた城独特の櫓門で、大きく頑丈に造られています。

                  


                             


    * (振り返ると)

                              


   ● 扇の勾配
        高石垣の角のところを横から見ると、上にいくほど反り上がる曲線を描 いていて、扇を広げたとき
        の曲線に似ていることから、こうした曲線をもつ勾配を「扇の勾配」と呼んでいます。
        石垣が高くなるほど、内部から積石には大きな圧力がかかり、石垣を崩す原因になります。
        その力に耐えられるように、裾部は傾斜を緩くしています。
        上部は垂直に近い急傾斜なので、敵に石垣を登らせないようになっているといわれます。
        また、石垣の角には、直方体の石を長短の辺が交互になるように積まれています。
        直方体の石が算木に似ていることから算木積みといいます。
        高石垣が築かれるようになる慶長期(16世紀末から17世紀初め)に完成した積み方です。

                        


                              



                  



                  



                  


   ● をの門跡
        いの門からぬの門を経て大天守へ向かう道を下道といいます。
        をの門は、下道の最初の門になります。
        門は高麗門形式で、その横にリの櫓がありました。
        をの門からぬの門までの間は一つの大きな枡形空間を形づくっており、下道における防御の要と
        もなっています。
        をの門とリの櫓は、明治15年(1882)2月に失火によって焼失しました。

           


   ● ろの門方面へ向かいます。

                              


                  



               



   ● ろの門手前から「いの門」、「菱の門」へと戻ります。

    * (ろの門手前)・・・(いの門)・・・(菱の門)

                  


   ● 姫山・鷺山と三国堀
        江戸時代、菱の門から内側を城山といいました。
        城山には鷺山と姫山の2つの峰があり、姫山にはその地形を利用して上山里曲輪や備前丸を設け
        頂部には大天守が築かれました。
        一方、鷺山には、峰の上部を大きく削って西の丸が造成されました。
        城山の中央にはほぼ正方形の三国堀があります。
        この堀は用水池で、2つの峰の間の谷を堰き止めて築かれたダムのような構造です。
        三国堀北側石垣には、谷筋にあった堀の痕跡をみることができます。

               


    * (堀の痕跡)

                      


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                               ● (入口へ) ●


 

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