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<< 経蔵(輪蔵)−→海光庵−→久米正雄胸像−→ −→聖観世音菩薩像・高浜虚子句碑・丈夫石−→藤棚−→見晴台 >> ● 経蔵(輪蔵) 一切経(仏教経典のすべて)を収める建物を経蔵と呼び、中央の八角形の回転式書架を輪蔵と言い ます。 輪蔵の腕木を押して一回転させると、一切経すべてを読んだのと同じ功徳が得られると言われてい ます。 輪蔵は観音縁日(毎月18日)等に回すことができます。 マニ車(摩尼車) 円筒状の側面にマントラが刻まれ中には経文が多数収められています。 マニ車を回転させることで、納められた経文を唱えるのと同じ功徳があるといわれています。 ※18基あり、毎日回すことができます。 * (輪蔵は 文化財保存保護の為 観音縁日(毎月18日)のみ 回転させられます) 仏教聖典の成立まで お経とは「仏教聖典」すなわち仏教徒の為の経典であり、仏教の開祖である釈尊の教えをまとめた ものです。 釈尊が説いた教えはそもそも記憶することが絶対条件であって教えを紙に記することは邪道であり 尊い教えであればこそ暗記して身につけるべきとされていました。 これが仏教聖典(経典)として確立したのは、釈尊入滅後のことでした。 釈尊の十大弟子の一人、摩訶迦葉が釈尊の教えを理解して正しく伝承していくことを提言。 ほどなく五百人の弟子たちが参集し、釈尊から生前何を教えられたか、又、どんな戒律を定められた が、記憶を互いに確認し合いました。 ただし、これで編纂された聖典も文字に書きとめられたわけではなく単なる確認であり、これがまた 記憶によって保持され口伝により伝承されていました。 このような時代が数百年続いた後、紀元前1〜2世紀ころ、こうした伝承聖典がついに、文字化され たと推定されます。 これに後世さまざまな経典が追加され、経蔵(釈尊の教え)律蔵(戒律)論蔵(経典の解釈)の三蔵(仏 教聖典の総称、大蔵経、一切経三蔵経とも)が成立しました。 写経とは 写経とは、経典を書写すること、又は、筆写した経典を意味します。 日本最古の写経の記録は、673年(天武2年)奈良の川原寺において、一切経が行われたという記述 が「日本書紀」に記されておりますが、それ以前より経典の書写は、経典を増やす、仏教を学習する 布教活動をするなど仏教を志す者は、日常的に行っていたと推察されます。 奈良時代には、国立の写経司の支配下に置かれた写経所で国家的背景で多量のよい写経が作ら れた記録が残っています。 鎌倉時代以降には印刷技術の向上により実用面の大規模な写経は行われなくなりましたが、信仰 のため仏道修業としての写経は続けられ今日に至っております。 尚、当山では、皆様が書写し終えた写経は、毎年11月18日の写経清浄会にて、回向・祈願の読経 をいたし、その後当経蔵に末永く納められます。 ● 海光庵 長谷寺境内に在る、お食事処です。 ● 久米正雄胸像 1891年長野県上田市に生誕。 俳人、劇作家、漱石門下の小説家として活躍。 鎌倉ペンクラブの初代会長でもある。 関東大震災の際、長谷寺にて難を逃れ、戦中には当山復興にも尽力した所縁により、氏の3回忌に ペンクラブが建立。 ● 聖観世音菩薩像由来 大麻唯男氏夫妻が愛娘栄子嬢の闘病21年の死の冥福を祈り、広く世の病に苦しむ人々に観世音の 加護を祈願し建立 表の句 永き日のわれらが為めの観世音 虚子 丈夫石は大麻氏の挙に賛し常の花・双葉山元横綱が大麻氏に寄進 世間大方の無事息災を祈るもの 昭和27年4月20日 大観音霊場 長谷寺 * (右画像/丈夫石) * (右画像/高浜虚子句碑) ● 見晴台へ * (左画像/藤棚) ● 見晴台 鎌倉の街並みと由比ヶ浜、遠く三浦半島まで見渡せる眺望は鎌倉随一と評され、天気の良い日は 伊豆大島もみえます。 (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |