(浜離宮恩賜庭園HPからお借りしました) (画像をクリックすると、大きくなります) |
<< 燕の茶屋跡−→三門橋−→八景山−→馬場跡−→新銭座鴨場−→ −→中島橋−→吉宗ゆかりのトウカエデ−→三門橋−→石碑/可美真手命−→ −→芳梅亭−→中の御門−→延遼館跡−→大手門 >> ● 燕の茶屋跡に向かいます。 燕の茶屋跡 11代将軍徳川家斉が在職中の天明7年(1787)〜天保8年(1837)の間に建てられました。 数寄屋風で、眺望にも優れているため茶座敷として使われたようです。 この名前は、室内の釘隠しの金具の形が燕の姿であったからという説と燕子花(かきつばた)の 形で、その一字「燕」を取ったという説も伝わっています。 昭和19年(1944)11月29日第2次大戦の空襲により焼失しました。 現在、復元作業中です。 ● 三門橋を渡ります。 ● 潮入りの池の西側に「八景山」という小高い丘があります。 潮入の池を中心とした眺めのすばらしい8カ所をみることできたことから八景山と名付けられました。 八景・・・中島の御茶屋、三丈ケ岡、富士見山、塩浜、御亭山、観音堂、海手茶屋 燕の茶屋 (全景は、パノラマでご覧ください) ● 馬場跡 ● 新銭座鴨場 (庭園には庚申堂鴨場と新銭座鴨場の二つがあります) 築造は1791年という古いものです。 詳しくは、庚申堂鴨場に記載してあります。 ● 中島橋の脇に、「吉宗ゆかりのトウカエデ」が。 * (吉宗ゆかりのトウカエデ)・・・(中島橋を渡ると中島の御茶屋に) ● 再び三門橋を渡り、中の御門へ向かいます。 * (再び三門橋を) ● 可美真手命(うましまでのみこと) 饒速日命(にぎはやひのみこと)の皇子で、神武天皇の東方遠征に従い、手柄をたてたと言われる軍 神の銅像です。 明治27年(1894)明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品であります 台座には、佐野昭制作、鈴木長吉鋳と記されてます。 ● 芳梅亭 和風の民家風の集会場で、利用日の6か月前から受け付けています。 ○利用時間 午前の部 9:00〜12:00 午後の部 13:00〜16:00 一日9:00〜16:00 ○使用料 3,600円(半日) 7,200円(一日) ○利用人数 25人 ● 菰巻(こもまき)〜冬の風物詩〜 寒くなってくると、枝先にいた害虫が越冬するために、幹を伝って地中へ下りようとします。 これを捕らえ、殺虫するために、「菰巻」と呼ばれる作業を行います。 幹に巻いた菰は上下二ヶ所を荒縄で、上はゆるめに、また下の荒縄がきつく結んであり、出られない ため地面に下りずに菰の中で越冬することになります。 そして春が来て虫が動き出す前に菰を取り外し、害虫と共に焼去します。 菰を巻く時期は10月下旬、霜降前後。取り外しは2月上旬から中旬、立春を目安にしています。 ● 中の御門 中の御門は、江戸時代の初期の頃から大正時代まで使用されていた出入り口です。 通用門、表門と時代ごとに役割が変わりました。 大正12年(1923)の関東大震災で中の御門橋がなくなり、昭和2年(1927)に橋台の石垣が撤去されま した。 平成17年(2005)に中の御門地区の整備をおこないました。 * (右画像/売札所) ● 延遼館跡を通って、大手門に向かいます。 延遼館(えんりょうかん) 外国要人の迎賓館として明治2年(1869)5月に落成したわが国最初の洋風石造建物(1,381m2 418 坪)でした。 明治12年7月グラント将軍(第18代アメリカ大統領)夫妻一行が来日の際は、約2ヶ月間滞在して盛 大な歓迎を受けました。 その後も、多くの外国貴賓を迎えた由緒ある建物でしたが、明治20年の地震による損傷が激しい ため明治22年に取り壊されました。 (全景は、パノラマでご覧ください) ● 雪吊り〜冬の風物詩〜 主として松に施される冬支度。 降霜・降雪から植物を守り、枝折れを防止するのが本来の目的だが、雪の少ない地方でも冬の添 景物としての一役を担っている。 ● 霜よけ〜冬の風物詩〜 温かい地方の植物(ソテツなど)を寒さから守るために、わたで作った覆いをかぶせたもの。 当園では鑑賞を目的として丸太を芯にしています。 ● 大手門到着。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |