(浜離宮恩賜庭園HPからお借りしました) (画像をクリックすると、大きくなります) |
<< 庚申堂鴨/小覗・大覗 >> ● 庚申堂鴨場 (庭園には庚申堂鴨場と新銭座鴨場の二つがあります) 築造は1778年で、鴨場は池と林を3mほどの土手で囲い、土手には常緑樹や竹笹をびっしりと植え、 鴨が安心して休息できるように外部と遮断しました。 池に幾筋かの引堀(細い堀)を設け、小のぞきから鴨の様子をうかがいながら、稗・粟などのエサと おとりのアヒルで引掘におびきよせ、機をみて土手の陰から網ですくいとるという猟を行っていました ● 小覗 * 裏にまわってみると。 ● 大覗 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ● 鷹狩りの方法 オナガガモ・コガモ・マガモ・ホシハジロ・キンクロハジロ (1)元溜りに囮のアヒルが放されています。秋から冬にかけて鴨などの水鳥が渡ってきます。 (2)小覗にある木の板を打ちならします。飼い馴らされたアヒルを引掘におびき寄せるためです。 (3)餌がもらえるのでアヒルが入ってきます。水鳥もつられて入ってきます。 (4)鷹匠が引掘に入ってくる水鳥の様子を確認しています。鷹匠・・鷹狩りのために鷹を飼いならす人 (5)鷹匠の合図で引掘をはさんで配置につきます。 (6)おどかされて逃げ惑う水鳥めがけて鷹を放ちます。 江戸時代は鷹で鳥を捕りましたが、明治以降は叉手網を使いました。 空高く逃げる鳥は、鷹が捕らえました。逃すと仲間に、この池が危険なことを知らせてしまうからです (1)静かに待ちます。 (2)合図で引掘の両脇にいきます。 (3)水鳥を叉手網で捕獲します。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− *元溜りに囮のアヒルが放されています。 秋から冬、野の鴨が池に渡ってきます。 *坂木を叩くとアヒルが引掘に入ってきます。 坂木の音が響くと、引掘に餌がまっかれ、それが食べられるので入るようにしつけられているのです *野の鴨はアヒルの後を追う習性ががあるので、つられて引掘に入ってきます。 小覗では入ってくる野の鴨の数を確認しています。 必要数入ったら鞴(ふいご)を踏みます。 鞴を踏むと引掘の入口が泡立つ仕組みになっており、鴨が入れなくなるのです。 鴨を遠ざけてから引起し網をあげて入口を閉めます。 *このようにして準備が整ったら、鷹匠や狩をする者の手信号で知らせます。 *鷹匠や狩をする者が引掘をはさんで配置につきます。 おどかされた鴨は、びっくりして逃げまどいます。 狩をする者は拳にのせている鷹を放ちます。 鷹は、空中で鴨を捕獲するのです。 明治以降は叉手網(さてあみ)で捕獲するようになりました。 叉手網をかいくぐって空高く逃げたものを鷹が捕りました。 逃すと仲間にこの池が危険なことを知らせてしまうからです。 *大覗では、池や鴨の様子を観察しました。 野生の鷹が池のそばにきていると鴨は落ち着きません。 そんな時は、大覗に仕掛けがあり、囮の鳩をそこに置き、野生の鷹をおびきよせて捕まえます。 また風向きを考慮し、どこの引掘を使うか決めました。 * (引掘)・・・(小覗/このぞき)・・・(大覗/おおのぞき) *鷹狩りは、仁徳天皇の時代には行われていた。 日本書紀に「酒君(さけのきみ)は、なめし革のひもを鷹の足につけ、小鈴を鷹の尾につけ腕の上にと まらせ天皇に奉った。この日狩をされ、鷹を放って数十の雉を捕った」とある。 *徳川家康は鷹狩りを頻繁に行った。 目的は遊びのためではなく、民情視察、身体の鍛錬、領国把握、土風刷新等。 *生類憐みの令を出した5代将軍綱吉は鷹狩りを廃止した。 復活させたのは8代将軍吉宗である。 *11代将軍家斉の頃は、鷹狩りも遊びとなり、鴨場を利用して放鷹(ほうよう)が盛んになった。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |