● 武田信玄の墓 山梨県指定史跡 昭和33年6月11日指定 武田晴信(信玄)は武田信虎の長男で、大永元(1521)年の出生。 天文10(1541)年、21歳で家督を次ぎ甲斐国主となる。 性格武勇沈着、こよなく家臣団・領民を愛する戦国時代の代表的な武将であった。 元亀4(1573)年4月12日病のため信州駒場の陣中で53歳で没した。 その10年前、永禄7(1564)年12月1日、時の恵林寺住持快川和尚に宛てた「恵林寺領之事」の証文 の中で、信玄自ら恵林寺を菩提寺と定めていたため、3年間の秘喪の後、天正4(1576)年4月に勝頼 が施主となって本葬が執行された。 「恵林寺殿機山玄公」と諡名される。 このときの仏事一切について、快川国師が「天正玄公事法語」(県指定文化財)に記録している。 現在の墓は信玄霊廟「明王殿」裏手に位置し、聖域と称される。 面積184.8平方メートル。ここに全高349.6cmの五輪塔一基、全高369.6cmの宝篋印塔一基が建立 されている。 この宝篋印塔の反花台座(基礎)裏側の銘文と、寺に保存されている「恵林寺奉加帳」(市指定文化 財)により、五輪塔・宝篋印塔ともに寛文12(1672)年4月12日信玄公百回忌が厳修された際に、恵 林寺住持荊山玄紹が武田家の遠孫・旧臣子孫592人の浄財を得て建立したものであることが判る。 参拝コースに従い、そのまま外を進みます。 ● 武田家家臣の墓 信玄の墓所の傍らには、かつて信玄を支えた武田家家臣たちの供養塔が建ち並んでいます。 子孫たちが江戸時代に建立したものだそうです。 * (武田家家臣の墓) 柳沢吉保夫妻の墓に向かうと、右側に「吉保廟」が見えます。 * (左/柳沢吉保夫妻の墓 右/吉保廟)・・・(吉保廟) ● 柳沢吉保夫妻の墓 江戸時代中期、徳川5代将軍綱吉の側近で大老格の地位にあった甲府15万石藩主柳沢美濃守吉 保と正室定子の墓で、はじめは甲府岩窪の竜華山永慶寺と真光院に建立されていたものであるが 享保9(1724)年3月吉保嫡男甲斐守吉里のとき、奈良の大和郡山15万石に転出が決まり、このため 同年4月12日恵林寺へ改葬されたものである。 柳沢吉保は天下泰平の世に異例の出世をしており、甲斐国主として優れた業績を残している。 また病弱であった正室定子を常にいたわり、市内に残る文献史料の中にもそれをうかがい知れる史 料が現存している。 このため山梨県の歴史の中でも、武田信玄に次ぐ人物として知らしめる必要があるので市指定の文 化財とした。 * (柳沢吉保夫妻の墓) 吉保廟に向かいます。 ● 吉保廟・・・柳沢吉保坐像(江戸中期・桧材寄木造・像高80cm) 5代将軍徳川綱吉側近・甲府15万石藩主・柳沢美濃守吉保公等身大の寿像。 吉保自筆の納め状もあり正徳元年(1711年)に制作させ、信玄菩提寺の恵林寺に奉納安置した。 納め状には「今度寿像安置、本望に至り候。信玄公尊像、遺し置かるるの地、恐れ入るべき義に候 といえども、愚存これある 故、外評を顧みず此の義に及び候、云々・・・」とあり、周囲を慮る胸中が察せられる。 作者は甲府の仏師、浄慶。 坐像は彩色が施され、玉眼入りで、吉保生前の面影が現代にも伝わる作である。 昭和58年、市の文化財指定を受ける * (柳沢吉保公坐像は、山梨県立博物館での展示の為、貸し出し中となっていました) ● 二階堂出羽守貞藤 (道蘊) の供養塔 柳沢吉保夫妻の墓の前にあるこの五輪塔は、恵林寺開基の二階堂道蘊(どううん)の供養塔と伝え られています。 道蘊は南北朝期、後醍醐天皇の信任を得た有能な人物でした。 しかし足利尊氏の讒言により、謀反人として一族皆殺しに。 供養塔は別地に建てられていましたが、のちにかつて道蘊の邸宅地であった恵林寺に移されたとい うことです。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |