(画像をクリックすると、大きくなります) << 晶子の松−→御手植の松−→小女郎の松−→宮津一里塚−→標柱(松並木終点まで1.5km) −→御上陸の碑−→千貫松−→芭蕉の句碑−→一声塚−→御休憩の置石 >> ● 晶子の松 橋立を詠んだ与謝野晶子にちなみ命名された松。 ロープで囲まれた中には、切られた跡があり小さな苗木が2本はえています。 ● 御手植の松 大正5年、昭和天皇が皇太子時代に御手植えされた松。 ● 小女郎の松 民話「橋立小女郎」の小径が付近にある。 ● 石碑(宮津一里塚) 標注(松並木終点まで1.5km) * (宮津 一里塚)・・・(松並木終点まで1.5km) ● 御上陸の碑 大正天皇が皇太子の時、山陰地方を巡行される中、明治40年5月13日、舞鶴から駆逐艦にて天橋 立を観光されました。 当時、天橋立公園は与謝郡が管理しており、郡が管理する公園に初めて殿下が訪問されたことを 無常の光栄とし記念行事として、皇太子が御上陸、御休憩所、御手植松の三箇所に置石を据えま した。 この石は、御上陸の場所を示すものです。 * (御上陸の碑そばから) * (振り返って) (全景は、パノラマでご覧ください) ● 千貫松 千貫文目の価値があると言われた名松。 ● 芭蕉の句碑 『一声の江に 横たふや ほととぎす』 芭蕉の庵から程遠くない江戸墨田川の景をよんだもので元禄6年(1693)年4月29日の芭蕉書 簡に見られます。 芭蕉は天橋立に訪れたり橋立をよんだ確かな句はありません。 宮津の俳句を楽しむ人々は、芭蕉の塚がないのを残念に思い、この句を選び1767年文殊堂境 内に歌碑を建立しました。 明治になり句の内容に相応しい場所にと、ここに移したそうです。 ● 一声塚 一声塚の句は、土地の俳人たちが芭蕉の句をかりて感じとった橋立の心ともいえ、芭蕉と橋立はそ のような形でつながっていたようです。 * 芭蕉の句碑)・・・(一声塚) * (芭蕉の句碑そばから) ● 御休憩の置石 大正天皇が皇太子の時、山陰地方を巡行される中、明治40年5月13日、舞鶴から駆逐艦にて天橋 立を観光されました。 当時、天橋立公園は与謝郡が管理しており、郡が管理する公園に初めて殿下が訪問されたことを 無常の光栄として記念行事として、皇太子が御上陸、御休憩所、御手植松の三箇所に置石を据え ました。 この石は、御休憩の場所を示すものです。 ● 松並木が続きます。 しかし智恩寺駐車場に戻り、車で傘松公園に向かうことにします。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |