●● 港ノスタルジー(稚内港駅舎) ●● かつての樺太への入り口、稚内港駅舎を再現しています。 だるまストーブ、木製の改札口など当時の雰囲気をそのままに。 ● 稚泊連絡航路(稚内−大泊間) 北日本開発の為に函館稚内間には急行列車を運転し、樺太との連絡は頗る便利になっている。 稚内・大泊間は約164 (実測86浬)で、航行時間は8時間ある。 この航路は鉄道省の直営に係り、稚内港の連絡岸壁は目下着々進捗中であり、大泊は既に岸 壁が完成して連絡線は横付けになる。 連絡線は、現在世界にも稀であると言われる程諸極の施設の賑わっている亜庭丸と宗谷丸二 隻で、4月から11月までは毎日、冬は隔日一往復運行である。 5〜6月にかけて一ヶ月間及び10月中には定期検査のため1船にて隔日相互発となる。 賃金 3等/2円50銭 2等/5円 1等/7円50銭 船内寝台料 2等/1円 1等は無料 3等はなし 船内食事料 和食 上弁/50銭 並弁/20銭 親子丼/40銭 洋食 朝/75銭 昼・夕/1円づつ 宗谷丸 3593.16頓 定員 1等/18 2等/102 3等/670 亜庭丸 3355.16頓 定員 1等/18 2等/102 3等/643 (昭和12年版「樺太旅行案内」より) ● 稚泊航路の砕氷船 稚泊航路は気候条件が厳しいところで、夏は濃霧におおわれる日が多く晴れることがなく、 さらに冬は強い季節風が吹き荒れ、流氷が海峡を埋め尽くす。 年が明けると亜庭湾の結氷がはじまり、連絡線はたびたび氷原に閉じ込められた。 砕氷設備をもたない船は冬季運航は不可能だった。 稚泊航路を抱く湾の名からとった亜庭丸は、日本で初めての本格的砕氷客貨船だった。 ● 稚斗連絡航路(稚内−本斗間) ● 稚内と樺太を結んだ海の道 大正12年(1923)5月に北海道最北端の稚内と宗谷海峡を隔てた樺太大泊間に稚泊航路(航 行約8時間)が鉄道省直営で開設された。 最北の鉄道連絡航路の誕生だった。 それまで小樽と直結されていた樺太が稚内と直接結ばれることになり、稚内が樺太開発の基 地としてクローズアップされ、必然的に稚内の産業や経済、文化の潮流をなしていった。 また、翌大正13年10月には民間の北日本汽船会社が稚内〜樺太本斗間に稚斗航路(就航約 7時間)を開設した。 樺太はこの東海岸及び西海岸への連絡航路を基幹として栄えていった。 しかし昭和20年(1945)8月、終戦によって稚泊及び稚斗連絡航路は、わずか20余年の短い歴 史に幕をおろした。 ● 稚内港駅(大正13年11月10日〜昭和13年12月10日) 大正12年(1923)5月の稚内〜樺太大泊「稚泊鉄道連絡線」の開設により、土間式の仮「稚内 桟橋」連絡船待合所が設置された。 翌13年、木造平屋建てながら天井も高く、外面は2階建て風に見違える本格的な待合所に立 て替えられた。 乗船者たちは待合所「稚内港」から、曳船によるハシケ輸送で沖懸りの本船へ向かい乗船した 昭和3年、海上に橋脚を立て鉄道を延長した際に「稚内港駅」と改称された。 稚内港駅は、昭和13年北防波堤構内に「稚内桟橋駅」が完成したのを機にその役目を終えた 翌14年からは旧稚内駅が南稚内駅の改称され、稚内港駅が稚内駅となった。 ● 稚内桟橋駅(昭和13年12月10日〜昭和20年8月24日) 昭和13年(1938)12月、それまでの稚内港駅に変わり、国鉄の稚泊航路の引き込み駅として北 防波堤ドームないに稚内桟橋駅が設置された。 翌年2月駅舎が完成し、正式に開業した。 駅舎は1階が貨物保管庫、2階が売店や食堂を備えた待合所で、駅舎をはさんで両側に線路が 走り、防波堤側に乗降客車のホーム、岸壁側に貨車用のホームがあった。 桟橋駅は、樺太に出かける人々や、運ばれてくる荷物であふれ賑わった。 昭和20年終戦とともに、稚内桟橋駅は6年余の歴史を終えた。 ● 北防波堤ドーム 北埠頭が旧樺太航路の発着所として使われていたとき、ここに通じる道路や鉄道へ波がかかるの を防ぐ目的で、昭和6年〜11年にかけ建設された防波堤。 設計者は稚内港築港事務所の土谷実氏であった。 なお、桟橋駅舎は昭和47年老朽化のため取り壊された。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |