●● 樺太ノスタルジー(旧豊原中学校の教室) ●● 旧豊原中学校の教室を再現し、稚内とゆかりの深い樺太の情報の展示、ビデオ上映しています。 ○ 映像で見る樺太とサハリンは、メニューを押してご覧下さい。 (1)サハリンの子どもたち (2)サハリン写真集 (3)悲劇と労苦の地・樺太 (4)稚内港北防波堤ドーム物語 ○ 黒板前の4つの机の表面はガラスが張られ、当時使われていた教科書などが展示されています (1)国語 巻三 (2)尋常小学修身書 児童用 文部省 (3)国文選 巻四 (4)中等公民科教科書 * (1)・・・(2)・・・(3) * (4)・・・(樺太全図) ● 樺太を歩いた男たち ● ● わたしたちのふるさと 樺太 樺太はもと唐太と称し、柯太、柄太とも書かれ、また北蝦夷、奥蝦夷などとも呼ばれていたが、 明治以後「樺太」と改称する。 樺太は我が領土中の極北に位置する狭長な低山性の島で、西は一衣帯水の間宮海峡を隔て て、蘇領沿海州に対し、東はカムチャッカ半島とオホーツク海を抱いている。 島の北半はソ領サガレン州に属し、南半が日本の領土に属するところである。 樺太庁を置き七支庁(豊原・大泊・元泊・教香・泊居・真岡・本斗)に分治している。 気候は全島を通じて最も寒いのは1月で、本島海面は冬季すべて結氷にさらされ、7・8月は暑 からず寒からずの凌ぎやすい時で旅行には最も好適である。 降雪は10月頃からで、結氷は東海岸が最も早く12月中旬には海岸膠着するが、西海岸真岡 以南は凍結することは殆ど稀で、真岡、本斗は不凍港である。 解氷はたいてい3月中旬から4月下旬の頃である。 ● ”樺太は島である” 間宮林蔵と松田伝十郎 文化2年(1805)にノシャップ岬にロシア人が上陸するという事件が起こり幕府は樺太を調べる 事に力を入れた。 それまでも調査していたが、知られていないことも多かったため、同年、幕府は間宮林蔵と松 田伝十郎の二人に樺太調査へ行くように命じた。 1808年4月13日、林蔵は伊能忠敬からもらった正しい地図を製作するための羅針盤という道 具を持って、伝十郎とともに宗谷から出発した。 樺太の一番南から二手にわかれて、林蔵は樺太を東から、伝十郎は西から北上した。 6月22日に再び合流した二人はラッカという場所まで行ったところで、これ以上先に進むのは むずかしいとしてラッカより北には行かなかった。 この時、二人は「樺太は島ではないのか」と考えた。 宗谷に帰ってきた林蔵は1月もたたないうちに7月13日に幕府より「樺太の東から行って、一 番北を調査せよ」と命じられ、今度は一人でアイヌ船にのり宗谷を出発した。 しかし林蔵は幕府に言われたこととは反対に、伝十郎と同じく西から北上し厳しい寒さに耐え 次の年の5月にヨーロッパ人がまだ調べていない場所を通った。 そして樺太の一番北に近いナニオーという場所に着いて、やっと「樺太が島である」と確証し たのである。 ● 日本で唯一、世界地図に名前を刻んだ探検家 間宮林蔵 安永9年(1780)−天保15年(1844)常陸国(茨城県)生まれ。探検家。 農民の子であったが、地理や算術に才能をみせ後に下役人となり、蝦夷地南千島に派遣さ れ、同地で測量に来ていた伊能忠敬に出会い、その技術を学ぶ。 以来、林蔵は幾度か蝦夷地に長く滞在し正確な地図の作成に力をいれる。 文化5年(1808)松田伝十郎とともに樺太の調査探検をおこなう。 その後、単独で樺太の北の端まで探検し、間宮海峡を発見する。 ● ”カラフトは離島なり、大日本国境と見きわめたり” 松田伝十郎 明和6年(1769)−天保14年(1843) 越後国(新潟県)生まれ。幕府誤用掛。 寛政11年(1799)幕府はロシアの南下が伝えられる状況に対し、北方防備を強化。 伝十郎は命を受けて、樺太探検と蝦夷地経営に従事する。 その後、樺太奥地の探検を命ぜられて、間宮林蔵と共に渡る。 江戸に戻り、樺太見聞の実測図を提出する。 また、北方勤務で得た蝦夷地樺太のことなどを記録した「北夷談」を著す。 ● 蝦夷の探検家 松浦武四郎 文政1年(1818)−明治21年(1888) 伊勢国(三重県)生まれ。探検家。 北海道という地名の名付け親でもある武四郎は、子どもの頃より、伊勢参りに訪れる人を通 して、日本各地の話を耳にし、やがて見知らぬ地への好奇心が高まる。 蝦夷地に向かった理由も清国がアヘン戦争に敗れたことで、蝦夷地に迫るロシアの脅威を 知り、自分の目で状況を確かめようとしたためといわれる。 28歳の時、はじめて蝦夷地へ渡った武四郎は精力的に蝦夷地の各地をまわる。 その後、6回の蝦夷地調査を行った彼は、アイヌ語も覚えるほど蝦夷地に精通した。 樺太へは二度離島し、東海岸、西海岸など各地を探検調査し、その成果を「樺太日誌」とい う形で出版し、樺太を世に知らしめる。 ● 日本人で初めて樺太の一周に成功 岡本監輔 天保10年(1839)−明治37年(1904) 阿波国(徳島県)埋めれ。探検家。 故郷で「日本の北にサガレン(樺太)という大きな島がある」という話を聞き興味をもち、まず江 戸へ出た。 江戸で間宮林蔵が樺太探検をした際の報告書「北蝦夷図説」を読み、北方がロシア人により 侵略されていることを知り、北方開拓に人生を賭ける決意をする。 文久3年(1863)樺太探検に出かけ、各地をまわり、敷香に滞在し、原住民とともに生活し、樺 太の風土を身をもって体験し理解を深める。 その翌年、再び樺太に渡り、西海岸にあるシララオロ(白浦)とクシュコタン(久春内)で越冬し、 春に曳木舟で東海岸を北上し、北端のガオト岬に到着する。 そして岬を回って、今度は間宮海峡を横目に西海岸を南下し、夏にシララオロ、クシュコタン到 着。 かくして樺太一周を成し遂げたのである。 ● 樺太の調査 最上徳内 宝暦4年(1754)−天保7年(1836) 出羽国(山形県)生まれ。探検家。 1785年、幕府の北方探索を目的とした蝦夷地調査団に随行する。 釧路から厚岸、根室まで調査し、さらに千島、樺太あたりまで探検する。 1792年、ふたたび樺太調査を命じられ、徳内は五度目の蝦夷地上陸。 樺太の自然や地理、和人やロシア人の居住状況を調査する。 また徳内は、ドイツ人医師シーボルトに、北方事情や間宮林蔵が調査した樺太地図を与える ● 間宮林蔵の名を世界地図に入れる ドイツ人医師 シーボルト (1796-1866) ● 樺太の鉄道 ● 樺太の鉄道の始まりは、明治38年(1905)に樺太守備隊が軍需輸送のために楠渓−豊原間に軍用 軽便鉄道を敷設したのが始まりと言われている。 同40年の樺太守備隊が廃止され樺太庁が設置されると鉄道は樺太庁に移管された。 樺太庁は線路の移設や客車の購入などを進めながら区間の新・増設工事に次々と着手していった 大正3年(1914)に川上線、昭和3年には豊真線・同12年には西海岸線の全線が開業、昭和16年に は樺太鉄道株式会社線(落合−敷香間)を樺太庁で買収した。 国防上の必要性や奥地開発のために樺太東線(東海岸線敷香以北)の建設が急がれ、昭和19年 には国境まで18kmの古屯まで開通したところで敗戦を迎えた。 (1) 樺太の鉄道路線図 (2) 左/上下・・樺太庁鉄道機関車 右/上・・・・豊真鉄道ループライン線 右/下・・豊原〜真岡間を連ねる鉄道豊真線 下・・・・・・・樺太鉄道局 (3) 豊原停車場 * (樺太の鉄道)・・・(1) * (2)・・・(3) (画像をクリックすると、大きくなります) ● 続きは、旧豊原中学校の教室(2)へ ● ● (入口へ) ● |