(琉球王国の歴史) 琉球諸島(奄美諸島〜八重山列島)には、約3万2千年前から人類が住んでいました。 12世紀頃から各地で「按司(あじ)」と呼ばれる豪族があらわれ、 やがて尚巴志(しょうはし)が主要な 按司を統括し、統一権力を確立しました。 これが尚王家を頂点とする琉球王国のはじまりです。 それ以降約450年間、王国は存続しましたが、明治維新により成立した日本政府が、軍隊を派遣首里 城から国王尚泰(しょうたい)を追放し沖縄県の設置が宣言され琉球王国は滅亡しました。 * (首里城・正殿) (画像をクリックすると、大きくなります) (首里城) 1970年(昭45)に琉球政府文化財保護委員会が、戦災文化財として首里城の復元構想を提案し、沖縄 県民の間で首里城の復元が活発に議論されるようになりました。 1986年(昭61)には沖縄の復帰記念事業として、首里城跡地を「国営沖縄記念公園首里城地区」として 整備することが閣議決定され、その周辺を県営公園として整備することが庁議で決定されました。 そして正殿とそのまわりの建物、城門、石積、園路、植栽などの復元整備工事が進められました。 1992年(平成4)11月3日に首里城公園は一部開園を迎え、現在は沖縄の歴史文化を物語る施設として 多くの人々が訪れています ● 守礼門 城郭外の坊門の一つです。 1500年中頃造られ、中国からの使者(冊封使)を迎える為だったようです。 その後「守礼之邦」の扁額を掲げたことから、守礼門と通称されるようになったようです。 1933(昭和8)年に国宝に指定。 しかし沖縄戦で完全に破壊されたため、1958(昭和33)年に復元されました。 * (右画像/首里城公園 HPより) ● 園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいもん) 守礼門後方にある御嶽(うたき)で、前に石門が築かれています。 琉球王府の行事や祭祀と密着した重要な御嶽だったといわれ、国王が城外に出かけるとき、旅の 安全を祈願したと考えられています。 創建は1519年頃で、沖縄戦で一部破壊され、1957年(昭和32)に復元されたものです。 国指定重要文化財。 2000年(平成12)には、世界遺産に登録されました。 ● 歓会門(かんかいもん) 首里城の城郭内へ入る第一の正門で、また 「あまへ御門(あまえうじょう)」 ともいいます。 「あまへ」は古い言葉で「よろこび」を意味し、「歓会」はその漢訳です。 第二尚氏尚真王代(1477〜1526)に創建されたといわれます。 沖縄戦で焼失しましたが、1974年(昭和49)に復元されました。 ● 瑞泉門(ずいせんもん・・美しい湧き水の脇にたたずむ門) 首里城第2の門で、別名を「ひかわ御門(うじょう)」。 1470年頃の創建といわれています。 門の名称は、門前右下にある「龍樋(りゅうひ)」に由来し、双壁の門の上に直接櫓をのせた櫓門 です。 国宝となっていましたが戦災で消失し、正殿とともに復元されました。 龍樋は、王宮や冊封使の飲料水として利用されました。 瑞泉とはその水をたたえた言葉です。 * (瑞泉門)・・・(龍樋・りゅうひ) ● 漏刻門(ろうこくもん・・首里の刻をきざみ続けた門) 門の上の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれています。 時刻を測定すると係の役人がここで太鼓をたたき、それを聞いた別の役人が東のアザナと西のア ザナおよび右掖門で同時に大鐘を打ちならし、城内および城外に時刻を知らせたそうです。 ● 広福門(こうふくもん) 中央部の屋根を高くして門を設け、屋根は赤瓦葺の入母屋造り。 門の左側が民事・司法関係を取り扱った役所である大与座、右側が寺院や神社、宗廟祭典(祖先 を祭る行事)をつかさどる役所の寺社座になっていました。 ● 奉神門(ほうしんもん・・・御庭への最後の門) 「神をうやまう」という意味で、正殿のある御庭に入る最後の門。 この門には3つの入り口があり、中央は国王や中国からの使者「冊封使(さっぽうし)」 など限られ た身分の高い人が通れる門。 それ以外の役人は両側の門から入城しました。 御庭を取り囲む建物の一つで、「君誇御門(きみほこりうじょう)」とも呼ばれました。 * (お庭方面から) ● 正殿(せいでん) 首里城正殿は琉球王国最大の建造物で、「国殿」「百浦添御殿」ともよばれ、文字通り全琉球国百 の浦々を支配する象徴として最も重要な建物でした。 正殿を二層屋根とするのは、中国式宮殿の最も格式高い形式です。 龍は国王の象徴、国の守護神として建物や工芸品に多く使われています。 現在の建物は1712年頃に建立され、数度の大修理を重ねながらも戦前まで存在した正殿をモデル に復元したものです。 ● 北殿(ほくでん) 首里城北殿は、「北の御殿」、「議政殿」とよばれていました。 現在の議事堂にあたる場所で、通常は王府の行政施設として機能していました。 冊封使が首里城へ訪れた時には、この北殿で歓待しました。 ● 南殿・番所(なんでん・ばんどころ) 正殿に向かって右側の建物が南殿と番所です。 建物は廊下でつながっており、右側の一階平屋が番所、左側二階建てが南殿です。 外装は白木のまま仕上げています。 番所は首里城へ登城してきた人々の取次を行いました。 南殿は年間を通して行催事等が行われ、薩摩藩の接待所としても用いられていました。 ● 寒水川樋川(すんがーひーじゃー) 生活用水のほか、防火用水としても利用されたといわれています。 あふれでた水は地中の溝を通り、久慶門の外側の左右から再び地中に入り、門の向かいの円監 池に抜けました。 池が満水になると、さらに龍樋に注ぎました。 このことから首里城の排水処理の一端を知ることができます。 * (南殿・番所)・・・(寒水川樋川) ● 久慶門(きゅうけいもん) 首里城外郭の北側に位置し、俗に「ほこり御門(うじょう)」と呼ばれ、通用門として主に女性が利用 していました。 門の造りは中央が石造アーチ門で、その上に木造の櫓があります。 この門の両脇には石遣の樋があり、あふれ出た龍樋の水が地下の排水溝を通ってここから外へ流 れていきます。 * (右画像/首里城公園 HPより) ● 今回で2回目ですが、学ぶ事が多くありました。 ● 首里城公園のホームページを参考にしました。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (ホームへ) ● |