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<< 徳冨蘆花旧宅入口−→休憩所−→由来碑−→母屋−→梅花書屋−→ −→身代わり地蔵−→秋水書院−→愛子夫人居宅−→夫妻の墓所 >> ● 徳冨蘆花旧宅入口 ● 入口を入り左側に休憩所と由来碑があります。 ● 母屋 茅屋(ほうおく) 僕の家は出来てまだ十年位比較的新しいものだが、普請はお話にならぬ。 其筈さ、先の家主なる者は素性知れぬ捨子で、赤子の時村に拾はれ、三つの時に人に貰はれ、 二十いくつの時養家から建てゝ貰った家だもの。 其あとは近在の大工の妾が五年ばかり住んで居た。即ち妾宅さ。 投げやり普請のあとが、大工のくせに一切手を入れなかったので、壁は落ち放題、床の下は吹 通し、雨戸は反って、屋根藁は半腐り、些真剣(ちとしんけん)に降ると黄ろい雨が漏る。 越してきたのは去年の此頃(註明治40年2月末日指す)雲雀は鳴いて居たが、寒かったね。 日が落ちると、一軒の茅屋目がけて、四方からおそ押寄せて来る武蔵野の春寒、中々春寒料 峭(しゅんかんりょうしょう)位の話ぢやない 國木田哲夫兄に興へて僕の近状を報ずる書 「二十八人集」より 引越した年の秋、お麁末(そまつ)ながら浴室や女中部屋を建増した。 其れから中一年置いて、明治四十二年の春、八畳六畳のはなれの書院を建てた。 明治四十三年の夏には、八畳四畳板の間つきの客室兼物置(註 現在はない)をズッと裏の方に 建てた。 明治四十四年の春には、二十五坪の書院を西の方に建てた。 而して十一間と二間半の一間幅の廊下を以て、母屋と旧書院と新書院の間を連ねた。 何れも茅葺、古い所で九十何年新しいのでも三十年からになる古屋を買ったのだが、外見は随 分立派で、村の者は粕谷御殿なぞ笑って居る。 二三年ぶりに来て見た男が悉皆別荘式になったと云うた。 御本邸なしの別荘だが、実際別荘式になった。 みみずのたはこと「故人」から ● 梅花書屋 この建物は、蘆花が1909年(明治42年)3月に松沢町北沢(現、世田谷区)に売家があるとの情報で 早速見に行って手付けを渡し、4月20日に建前を行い、5月30日に全部終了した。 母屋との間は、踏石を渡って往復した。 梅花書屋の名称は、この家に掲げられてある薩摩の書家鮫島白鶴翁(西郷隆盛の書道の師)の筆に なる横額によるものであり、この額は蘆花の父徳富一敬から譲られたものである。 梅花書屋の命名以前には、単に「書院」、後には「表書院」とよばれた。 現在ある梅花書屋、秋水書院、母屋をつないでいる廊下は秋水書院完成後につくられたものである。 ● 身代わり地蔵 地蔵様が欲しいと云ってたら甲州街道の植木なぞ扱ふ男が、荷車にのせて来て、庭の三本松の陰 に南向きに据えてくれた。 八王子の在、高尾山下、浅川付近の古い由緒ある農家の墓地から買って来た六地蔵の一體だと云ふ 眼を半眼に開いて、合掌してござる・・・。 みみずのたはこと「地蔵尊」より (註)この地蔵尊は、大正12年9月1日の関東大震災の時、倒れたが無事だった。 しかし、大正13年2月15日お余震で叉倒れ、頭が落ちた。 蘆花は、これを自分たちの身代わりになったようなものだとして「身代わり地蔵」と命名した。 ● 秋水書院 明治維新前10年の建物(今から約140年前) この建物は、蘆花が烏山に在った古屋を買い取り移築し、1911年(明治44年)1月から春にかけて、 建て直したもので通称「奥書院」の名がある。 建前は1月24日であった。 その日蘆花は当日の午後になってから判ったのだが、当時世間の耳目を集めた大逆事件の犯人 とされた幸徳秋水以下12名の死刑の執行の日であった。 (ただし、1名は25日に刑を執行) 蘆花は大逆事件については冤罪であると、大きな関心を寄せていたが1月中旬に12名が死刑判 決を受けたことを知ると兄蘇峰及び桂総理宛に再考の書簡を出した。 また1月22日には、第一高等学校(現東京大学)生徒の弁論部委員が演説を依頼にきたので、とっ さの思いつきでの「謀叛論」と題し2月1日を約束し、当日は草稿を持たず会場に溢れんばかりに生 徒達を前に演説をした。 かくして奥書院は同年春に完成した。 蘆花夫婦はこの建物を「秋水書院」と名付けたが、一般に「秋水書院」と呼ばれるようになったのは 戦後のことである。 ● 愛子夫人居宅 この建物は蘆花夫人の愛子さんが、昭和12年9月18日蘆花没後10年を期して、東京市に土地・建 物・遺品等の一切を寄付し、翌13年2月27日蘆花恒春園が発足するに際して、夫人の要望に基づき、 夫人の当面の住まいとして、当時東京市が新築したものです。 しかし、愛子夫人が実際に居住したのは、昭和14年11月までと短い期間でした。と言うのも、現在 「花の丘」として蘆花恒春園の一部に編入されている区域に当時野外のゴミ集積所がつくられ、風向 きによるその悪臭にほとほと悩まされたことが大きな理由のようです。 このため夫人は三鷹台に土地を借り家を新築し、日常はそちらに住みました。 愛子夫人は後に熱海に転居し、そこで昭和22年2月20日永眠しました。 その遺骸は本園のくぬぎ林内の蘆花の墓地に一緒に埋葬されました。 なお、この建物は後に、公園施設の集会場として公開され以後多くの人に利用されてきております * こちらの愛子夫人居宅は有料の集会施設です。 ご予約のないお客様の立ち入りはご遠慮いただいております。 ● 夫妻の墓所 *徳冨健次郎墓誌 (この墓に眠る人は、徳冨健次郎といい号を蘆花(ろか)と称した。) 1868年12月8日(明治元年10月25日)熊本県水俣市で生まれ、都とは徳冨一敬、号淇水、母は久 子、矢島氏の出である。 兄に蘇峰徳富猪一郎がいる。 蘆花の幼時はひよわであったが、少年時代から青年時代にかけて、父や兄から訓育を受け教導さ れて、その性格が形づくられた。 中年以降はすぐれた文人として自立し、その著作は広く世間に読まれ多くの読者に好まれた。 蘆花の妻は愛子、原田氏の出である。夫妻は互いに相たすけ、常に離れることがなかった。 しかし、ついに子供には恵まれなかった。伊香保の療養先で、最期に臨んで、兄に後事を頼み、心 静かに永眠した。数え60歳である。ときに1927(昭和2)年9月18日のことであった。 蘆花は生まれつき真面目で意思強く妥協を排し、世間の動きに左右されることがなかた。 また、与えることが多く、愛情をもって人々に接した。文章をつくるにあたっては、さまざまな思いが 泉のように湧き出て、つぎつぎと言葉が流れ出るようであった。 蘆花の生涯は、終始自らを偽らず、思うままに行動し、ひたすら真善美を追求することに努めた人生 であった。遺骸は、粕谷恒春園の林の中に持ちかえり埋葬された。 これは自身の生前からの願いであり、また粕谷の村人たちの希望するところであった。 兄徳富蘇峰65歳 涙をぬぐいつつ書く。 この墓誌の原文は、蘆花死去の直後に、兄徳富蘇峰によって漢文で書き記され、石盤に刻まれて 墓におさめられた。 *徳富愛子墓誌 (ここに葬られているのは、蘆花徳富健太郎の夫人愛子である。) 女史は原田氏の出で、名は藍子、後に愛子と改めた。1874(明治7)年に熊本県菊池(隈府)市に生 まれ、長じて東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)に学んだ。ある日、私のところへ兄原田良 八が同行して来た。一見して弟の妻に好ましいと思い、弟の意向を聞き、老父母にも相撲し、卒業後 婚姻が成立した。 女史は才色ともにめぐまれ、態度ははつつしみ深く、精神は、しっかりして動揺することがない。 夫婦生活34年間、心は一つとなり、相愛し、相たすけた。蘆花が大をなし得たのは、女史の内助によ るところが大きい。 蘆花死去後、20余年をひとり生きて、自身の病弱をおして、蘆花の遺著を整理刊行し、また後々の 計画を定めた。すなわち十回忌に恒春園の土地と邸宅一切を東京都寄贈し、蘆花記念公園としたの である。 女史は1947(昭和22)年2月20日、熱海の仮の住居で永眠した。数え年74歳、遺骨は蘆花の左隣り に葬られた。 兄 徳富蘇峰85歳 起す。 原文を刻んだ石版は五十日祭のとき墓におさめられたという。 (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |