身延山久遠寺 |
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2010.05.13 |
木 |
晴 |
八王子IC−−−甲府南IC−右折−−(国道358)−−笛南中北・左折(下曽根橋手前)−− 4:43----------5:30-----------------------------------------------------
−−(国道140/県道4)−−富士橋渡る−−(国道52)−身延バイパス−−身延トンネル−−
−−信号(小田船原・右折)−−信号(久遠寺入口・左折)−−信号(身延立体北/左折)−−
−信号(身延立体東/右折)−信号(久遠寺入口/左折)−三門前通過−−せいしん駐車場 ---------------------------------------------------------------6:25
*身延バイパス手前から県道805で行く道がありますが、山の中を走る道(舗装) ですので、国道52で行ったほうが早いです。
● 今回は身延山(東コースで登り、西コースで下山)の後、久遠寺に ●
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4:43 5:30
6:25
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八王子IC通過 甲府南IC通過し右折し国道358へ。 すぐ先の信号「笛南中北」で左折(下曽根橋手前)し、笛吹川沿い(国道140)を進みます。 富士橋を渡り左折し、国道52を走り身延町に入り身延バイパスへ。 身延トンネルを抜け信号(小田船原)右折し、信号(久遠寺入口)左折。 町中を通り「三門前」を通過し、「せいしん駐車場・有料」到着。 *身延バイパス手前から県道805で行く道がありますが、山の中を走る道(舗装)ですので 国道52で行ったほうが早いです。 今回は身延山(東コースで登り、西コースで下山)の後、久遠寺に。
●三 門 間口13間、奥行5間、高さ7丈(21m) 三門の名称は、三解脱門の意で、空・無相・無願をあらわし、仏教の教義では仏道修行 のさとりの内容を示しています。 世の中の様々な執着を取り払い本堂(涅槃・解脱)に至る門として位置づけられています。 三門には、79世日慈上人の筆による「身延山」の扁額がかかっています。 楼上の内陣には、釈迦如来像と十六羅漢像が安置され、羅漢の作者は仏師辻井岩次郎。 下層の両側には寺院を護持する金剛力士(仁王像)が安置され、両像は阿吽(あうん)の 呼吸で知られています。
駐車場奥の斜行エレベーターで「久遠寺」へ。 ●斜行エレベーター 2009年、五重塔の附帯事業の一つとして完成。 せいしん駐車場から境内へと階段を使わずに登ることができます。
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「斜行エレベーター」を下りると、目の前に「五重塔」が建っています。
●五重塔 元和5年(1619年)に加賀前田利家公側室寿福院が施主での建立と伝えられています。 その後、文政12年(1829年)9月の落雷火災により焼失。 慶應元年(1865)に36年ぶりに際建立されましたが奥の院参道の「十如坊」近くの山中にあったと 伝えられています。 明治8年(1875)大火により再び焼失し、以後134年間、五重塔を喪失したまま時が過ぎました。 平成20年(2008)竣工、翌平成21年(2009)の落慶法要にて身延山の地に再び五重塔が再建立さ れました。 木材は全て国産を使用し、設計から工法にいたるまで400年前に建てられた元和の塔を復元・再 建しています。 五重塔は釈迦の御遺骨(仏舎利)を安置する堂宇、塔婆(ストゥーパ)として、寺院伽藍とって象徴 的な重要な意味を持ちます。
●本堂 明治8年(1875年)の大火以来、本堂の再建は身延山の悲願でした。 機熟し日蓮聖人第700遠忌の主要事業として、88世日慈上人代に着手、89世に康上人代を経て、 90世日勇上人により昭和60年(1985年)5月、入仏落慶式が行われました。 総面積970坪/間口17間半/奥行28間/内外装は木造仕上正面に祀られる仏像は、日蓮聖人が 筆で書かれた大曼荼羅(まんだら)本尊を仏像で表現したもの。 須弥檀(しゅみだん)歓請の諸尊・一塔両尊四士等の15体は江里宗平(えり そうへい)仏師の作、 祖師像は沢田政廣(せいこう)仏師の作。 外陣の天井画「墨龍」は加山又造画伯の力作です。 昭和61年度(1986)の建築業協会賞を受賞し、総本山の根本殿堂にふさわしい規模と格調を備え ました。
●祖師堂(そしどう) 日蓮聖人の神霊を祀る堂閣。「棲神閣」 12間20間。 江戸時代の祖師堂は明治8年(1875)の大火で焼失しましたが、明治14年(1881)に七十四世日鑑 上人の代に再建立。 一部の用材は、天保改革で取り潰された鼠山(ねずみやま)感応寺のものを再利用。
●報恩閣(ほうおんかく) 立教開宗750年慶讃事業のひとつとして建築され、受付と信徒休息所を備えています。
●御真骨堂(ごしんこつどう)・拝殿 白亜の八角堂とその拝殿から成ります。 『甲斐国志』には「而実不滅堂」とあり。 元政上人は「何故に 砕きし骨の名残とぞ思えば袖に 玉ぞ散りける」と詠っています。 拝殿の奥に望む土蔵造り八角堂が、日蓮聖人の御舎利を奉安する御真骨堂です。 尾張の信徒によって明治14(1881)年74世日鑑上人の代に建立。 御真骨堂の中央には精緻を極め善美を尽した5重塔があり、その中央の水晶の宝龕中に日蓮 聖人の御真骨が納められています。 堂内の宝龕蓮華台は美濃国の寺院、五重塔と天蓋は長崎の講中の寄進であり、金銀をちりば めた四天王は後藤佑乗の彫心鏤骨の作です。
●仏殿(ぶつでん) 宝永5年(1708)、36世日亨(にちこう)上人代に創立。 文政12年(1829)に焼失。天保3年(1832)59世日銘上人代に再建。 嘉永5年(1852)、日薪上人代に転地改造。嘉永7年(1854)地震にて崩壊。 明治9年(1876)西谷本行坊客殿を曳き仮堂としました。 昭和6年(1931)81世日布上人代に建立され、日蓮聖人650遠忌を奉行。
●客殿 明治18年に建立。 入母屋造、瓦棒銅板葺の大建築で、平側に唐破風の大玄関と千鳥破風の玄関を設けています。
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●法喜堂(ほうきどう) 明治8年に焼失。明治16年(1883)74日鑑上人代に甲斐駿河寺院信徒の寄進によって再建。 旧堂宇は慶長13年(1608)18世日賢上人代に豊臣秀吉姉瑞龍院(関白秀次の母)が寄進したもの。 参拝に関する寺務所は報恩閣に移りましたが、現在も一部の寺務所が置かれています。
●甘露門(かんろもん) 2間1間半。 明治初年に建立。元・元老院議官であった中村正直の筆。 甘露の語源は、「法華経観世音菩薩普門品第二十五」の中の「*ジュ甘露法雨」からきています。 観世音菩薩は、私たちを救うため、甘露の雨を降らすという意味です。 *ジュ・・・樹の木へんをシ(さんずいへん)に置き換えた文字
●時鐘 昭和27年焼失、永田雅一氏が再建。 一間袴腰付鐘楼。 入母屋造桟瓦葺の建物で、昭和27年に焼失後、再建されています。 梵鐘は、四国松山城主久松家の祖定頼の正室養仙院殿の寄進で、延宝8年(1680)に鋳造され、 31世日脱上人の鐘銘があります。
●開基堂(かいきどう) 多宝塔形式で、身延山の開基檀越南部(波木井)実長像を奉安。 以前は本堂前にありました。 身延町指定文化財。
●御札所
* (時鐘)・・(開基堂)・・(御札所)
●大鐘 鐘楼堂は明治15年(1882)日鑑上人代に甲斐国南条講中が寄進。 梵鐘は22世日深上人代に企画され、25世日深上人代に鋳造。 お万の方が寄進したもので、銘は21世日乾上人の撰。 通常は朝と夕方に撞かれます。
●水屋
* (大鐘)・・(水屋)
* (奥之院駅(ロープウェイ)が見えます)・・(春には樹齢約400年のシダレ桜が見事です)
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