(2)数寄屋櫓跡→稲荷曲輪跡

                          


                         (画像をクリックすると、大きくなります)
   

  << 水溜跡脇の分岐−→石切場跡−→御製の碑−→数寄屋櫓跡−→矢狭間と鉄砲狭間−→

        →数寄屋曲輪−→稲荷曲輪広場−→二重の石垣−→稲荷曲輪門→四阿−→庄城稲荷跡 >>


   ● 「水溜跡」の脇の分岐の右側をくだると自由広場へ。

    * (水溜跡/(1)に記載)・・(分岐左方面は稲荷曲輪門へ)・・(分岐右方面は自由広場へ)

                  


   ● 石切場跡
        甲府城の石垣の石材はこのような岩山からも切り出しました。
        岩盤の表面には、石を切り出すための、古い楔(くさび)の跡が残っています。

                  


   ● 御製の碑
        明治天皇御製 
              えびかつら色津支そ免ぬ山梨の 里乃阿き風佐むくなる羅し
                        御歌所寄人 入江為守謹書

                      


   ● 数寄屋曲輪方面に向かいます。

                  


   ● 数寄屋櫓跡「別称:巽櫓/たつみやぐら」
        城内で最も東側に建てられた櫓で、明治初年までは残っていたことが古写真でわかっています。

                  


   ● 矢狭間と鉄砲狭間
        塀の壁に小さな穴を開けて城外をのぞき、弓矢や鉄砲で敵に攻撃を仕掛けたりするためのものです
        形は様々ありますが一般的には長方形・正方形は矢狭間、円形・三角形は鉄砲狭間とされています
        これはそれぞれ武器を動かす際の視野や姿勢の違いによるものです。

                          


                                     


   ● 数寄屋曲輪

                  


                          


   ● 「稲荷櫓」に向かいます。

                             


   ● 「稲荷櫓」のある広場に

                  


                  


   ● 二重の石垣
        石垣の解体調査をしたところ、その背後からも石垣が現れ積み直しをしていることがわかりました。

                            


                  


                  



   ● 稲荷曲輪門( (1)に記載してある門の反対側です )
         稲荷曲輪と鍛冶曲輪をつなぐ門です。
         発掘調査によって、柱の跡などが見つかりました。
         享保の火災でも焼けず、明治初年までは残っていたものを、形成11年に復元しました。
         門の形式・・単層門  入母屋造り  瓦葺き  東側に土塀付き
         門の規模・・開間八尺九寸  控柱間六尺弐寸(間口2.7mx控え1.9m)

                  


                             


   ● 四阿

                          


   ● 庄城稲荷跡
        ここには築城以前から、一条小山の守護とも言われている庄城稲荷がありました。
        現在は移転して、遊亀橋の東側にあります。

                  


              



                         (画像をクリックすると、大きくなります)


                               ● (入口へ) ●


   

HTML Builder from Excel   作成:QQQ