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● 白洲次郎・正子旧宅 (町田市指定史跡) 所在地 町田市能ヶ谷町1283番外 指定年月日 2002年11月14日 戦後の新憲法に深く関わり、東北電力会長としても活躍された白洲次郎と、美術評論家・随筆家 として読売文学賞2回受賞、町田市名誉市民第1号の白洲正子のご夫婦が、能ヶ谷のこの地に 農家を買い取り移住されたのは、昭和17年(1942年)であった。 寄せ棟造りで東側妻面兜造りの重厚な茅葺屋根の主屋と、カキ、シラカシ、などを配した広い庭の たたずまいは、多摩地域の養蚕農家の面影をいまに伝える貴重な文化遺産である。整型四間取 や材料・構造から見て19世紀以降のもので、明治初期の建築と推定できる。養蚕農家として明治 ・大正・昭和と使われてきた「家・屋敷」が原型に近いかたちで今日に残されたのは、古い民家な どに限りない価値を見出した、白洲ご夫婦の独特なライフ・スタイルの賜(たまもの)であろう。 冠せられた「武相荘(ぶあいそう」という愛称も、古い農家に具わる”静謐な美”に寄せるご夫婦の、 慎み深い敬称と読みとれる。 設置年月 2003年8月 町田市教育委員会 ![]() ![]() 白洲次郎 (1902~1985) 兵庫生まれ。若くしてイギリスに留学。ケンブリッジの学ぶ。第二次世界大戦あたっては、参戦 当初より日本の敗戦を見抜き鶴川に移住、農業に従事する。 戦後、吉田茂に請われてGHQとの折衝にあたるが、GHQ側の印象は「従順ならざる唯一の日 本人」。その人となりを神戸一中の同級・今日出海は「野人」と評している。 日本国憲法の成立に深くかかわり、政界入りを求める声も強かったが、生涯在野を貫き、いくつ もの会社の経営に携わる。 晩年までポルシェを乗り回し、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長を努めた。 「自分の信じた『原則(プリンシプル)』には忠実」で「まことにプリンシプル、プリンシプルと毎日うる さいことであった」と正子夫人。 遺言には「葬式無用、戒名不用」。まさに自分の信条(プリンシプル)を貫いた83年だった。 白洲正子 (1910~1998) 樺山伯爵家の次女として、東京に生れる。 祖父は薩摩藩出身で警視総監や海軍大臣を歴任した樺山資紀、父の愛輔は貴族院議員。 幼い頃から能を習い、十四歳で女性として初めて能舞台に立つ。学習院女子部初等科を卒業、 同年、アメリカのハートリッジスクールへ入学。帰国後、白洲次郎と結婚し二男一女を得る。 戦後、小林秀雄、青山二郎らと親交を結び、文学、骨董の世界に踏み込む。 銀座に染織工芸の店「こうげい」を営み、多くの作家を見い出す。 初の著書「お能」を皮切りに、「韋駄天お正」と命名されたとおり、自分の眼で見、足を運んで執筆 する姿勢は、終生変わらなかった。 「能面」「かくれ里」でともに読売文学賞を受賞。 他に「明恵上人」「十一面観音巡礼」「西行」「両性具有の美」など。 (左/ミュージアム) (右/レストラン(武相荘/ぶあいそう)) ![]() ![]() ● 案内コース (1) 駐車場-→散策路 鶴川街道側入口-→受付・ショップ-→カフェ (2) 入口の門-→バー・ギャラリー-→レストラン(武相荘/ぶあいそう) (3) ミュージアム-→散策路 ● アクセス (最寄駅 小田急線鶴川駅) 徒歩の場合 小田急小田原線 鶴川駅 北口下車、徒歩15分 バスの場合 鶴川駅より 2番乗り場11系統バスにて「鶴川一丁目」下車、徒歩5分 2番乗り場13系統バスにて「平和台入口」下車、徒歩5分 車の場合(駐車場) 乗用車 16台の駐車スペースがあります。 ![]() ![]() ![]() ● 旧白洲邸 武相荘HPを参考にし、アクセス図をお借りしました ● (画像をクリックすると大きくなります) ● (ホームへ) ● |