景徳院 ( けいとくいん 山梨県甲州市 )

 <<景徳院>>
      本史跡は、天正10年3月11日徳川・織田の連合軍に攻められた武田勝頼一族郎党約50名が自害した
      田野の地である。
      武田勝頼は、天正元年父信玄の跡をついで武田氏の当主となった。
      宿敵織田信長・徳川家康と、長篠において戦ったが利あらず敗退した。
      その後新府城を築き再挙を計ったが、天正10年3月再度織田・徳川軍に侵攻され、小山田氏の岩殿城
      に走ったがそむかれたので、ついに日川をさかのぼり田野に至って力つき、主従はここに自害して果て
      たのである。
      その後家康入国し、勝頼等一族の菩提を弔うため僧拈橋を開山として田野寺(現景徳院)を建立した。
      現在本境内には県指定の勝頼主従の墓とその位牌をまつる甲将殿がある。
                                         (昭和48年3月1日  山梨県教育委員会)

                         


                       ((画像をクリックすると、大きくなります))

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  ● 景徳院駐車場と道をはさん参道入口があり、石碑(武田勝頼公廟所)と「総門」があります。

                 

                             (石碑・武田勝頼公廟所)             (総門)

  ● 案内に従い階段を上ると、「山門」があります。
       山門
         徳川家康の建立。
         二階正面に十六体の羅漢像が安置され、弘化二年・明治の火災で景徳院は焼失しましたが、唯一
         創建当時から残っている門です。
                         


                 

                                   (山門)

  ● 山門をくぐると、「本堂」を挟んで「旗竪松」・「鐘楼」があり、そばに「歌碑・武田慕情」・「人形塚」があります。
       本堂
         本堂、庫裏などは、昭和53年(1978)に再建されました。
       鐘楼

       旗竪松 (はたたてのまつ)
         天正10年(1582) 3月11日、自害する前に勝頼はこの場所において、武田家累代の重宝旗(日の丸
         の御旗)を大松の根本に立てて、楯無鎧を嫡男の信勝に着用させたそうです。

                     

        (旗竪松)                 (本堂)                     (鐘楼)

                 

                                (歌碑・武田慕情)              (人形塚)

  ● 石碑(北条夫人辞世の句)と柱(勝頼公辞世・信勝公辞世)。

               

        (石碑・北条夫人辞世の句)               (勝頼公辞世の句)    (信勝公辞世の句)


       勝頼公辞世の句
          おぼろなる 月もほのかに 雲かすみ はれてゆくえの 西の山の端
       北条夫人辞世の句
          黒髪の みだれたる世ぞ はてしなき 思ひに消ゆる 露の玉の緒
       信勝公辞世の句
          あだに見よ 誰も嵐の 桜花 咲き散るほどの 春の夜の夢

                                  (辞世/勝頼公・北条夫人・信勝公)


  ● 武田勝頼の墓(山梨県指定史跡 昭和33年6月19日指定)
       武田勝頼は武田信玄の第四子で、信玄の没後その意志をつぎ天下統一のため努力したが、天正3年
       (1575)5月長篠の戦いに破れてから幾度かの戦いにも武運つたなく、天正10年3月11日この地において
       織田・徳の連合軍と戦い一族と共に自害して果てた。
       時に、勝頼37歳、夫人19歳、信勝16歳であった。
       新羅三郎義光以来28代495年の武田家の歴史もここに終わりを告げたのであるが、同年7月徳川家康
       が入国の時、勝頼以下約50名の菩提のため田野寺を建てた。
       これが現在の景徳院である。
       墓の位置及び法名は次のとおりである。
        中央 勝頼   景徳院殿頼山勝公大居士(けいとくいんでんらいさんしょうこうだいこじ)
        右  北条夫人 北条院殿模安妙相大禅定尼(ほうじょういんでんもあんみょうそうだいぜんじょうに)
        左  信勝    法雲院殿甲巌勝信大居士(ほううんいんでんこうがんしょうしんだいこじ)
        両側 殉難者
                                  平成17年2月 山梨県教育委員会・大和村教育委員会


                         


  ● 勝頼公生涯石・北条夫人生涯石・信勝公生涯石
       勝頼公生涯石
          武田勝頼はこの石の上で自害したと伝えられています。
          天正10年(1582) 3月11日の事で、時に勝頼37歳。
       北条夫人生涯石
          勝頼の正室(後室)の北条夫人は、小田原の後北条氏 3代当主氏康の 6女(4代当主氏政の妹)
          天正 5年(1577)1月に勝頼に嫁ぎ、5年後この地で19歳という短い生涯を終えました。
       信勝公生涯石
          勝頼の嫡男・信勝の実母は死別した勝頼の正室で、織田信長の姪に当たる遠山夫人。
          信勝は16歳で、父・勝頼、そして最期まで付き従った家臣らとともに自害し、名門・甲斐武田氏は
          ここに滅亡しました。

          

                (勝頼公生涯石)                       (北条夫人生涯石)

  ● 甲将殿 (影殿)
       甲将殿には武田勝頼主従の位牌が祀られています。
                         

                  (甲将殿)

  ● 没頭地蔵
       勝頼公(37歳)、北条夫人(19歳)、信勝公(16歳)の 3人を祀った 3体の地蔵尊ですが、3体とも頭部が
       なかったそうです。
       またこの場所は、北条夫人を葬った場所とのこと。
                     


  ● 首洗い池
       この雨沢口に湧く清水の池は、武田勝頼公父子の首を洗った所と言われています。
       現在は池はありませんが、ここの湧き水で勝頼の首を洗ったそうで、総門の脇の沢沿いに東屋があり、
       その先です。
          



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     (アクセス)
      車・・・・・中央自動車道勝沼ICから、国道20号を大月方面へ。
              信号(景徳院入口)を左折し、県道218へ。
           中央自動車道大月ICから、国道20号を勝沼方面へ。
              「笹子トンネル」・「道の駅甲斐大和」を通過し、信号(景徳院入口)を右折し、県道218へ。

      バス・・・JR甲斐大和駅や塩山駅から「天目行」にて「景徳院入口」下車
               問い合わせ・・・甲州市市民生活課市民生活担当(0553-32-5068)
           JR甲斐大和駅から「上日川峠行」にて「景徳院入口」下車(4月下旬〜11月下旬 土・日・祝日)
               問い合わせ・・・栄和交通 0553−26−2344


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