(8)不忍池辯天堂 1

                                



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   ● 不忍池辯天堂 参道

                              



   ● 東叡山 寛永寺 不忍池辯天堂
        辯天堂の縁起
          このお堂は、江戸初期の寛永年間に、東叡山寛永寺(天台宗)の開山、慈眼大師天海大僧正に
          よって建立されました。
          天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。
          これは、寛永寺というお寺を新しく建立するにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣
          に見立てたことを意味します。
          不忍池は、辯天さまの持つ琵琶の形に似ている滋賀県の琵琶湖に見立てられ、また元々あった
          聖天(しょうてん)さまが祀られた小さな島は竹生島に見立てられ、さらに水谷伊勢守(みずのやい
          せのかみ)勝隆(かつたか)公と相談して、島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺/ほうごんじ」
          を見立て、このお堂を建立したのです。
          太平洋戦争の空襲で一帯は焼けてしまいましたが昭和33(1958)年に復興し、また昭和41(1966)年
          には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が、また門下による季節
          の花の絵が奉納されました。
        辯才天の縁日「巳の日」
          辯天堂にお祀りされるご本尊さまは秘仏「辯才天」です。
          学問や音楽と芸能の守り神として広く信仰され、また「辯才天」とも書くことから、金運上昇といった
          ご利益があります。
          なおこのお堂の辯才天は、8本の腕それぞれに悪や災難を遠ざける徳の象徴である仏具を持つ「
          八臂辯才天/はっぴべんざいてん」さまです。
          辯才天は、もともとインドのサラスヴァティー河の神格化から生まれたインド伝来の女神です。
          そのため河川が曲折して土地を「蛇行」することから、水と蛇と深い関わりがあると古来より考えら
          れました。 そのためこのお堂では毎月の「巳の日」を縁日としています。
          またこのお堂のご本尊さまは、顔が翁で体が蛇というお姿の「宇賀神」を頭上にいただいています
          辯才天と宇賀神はいずれも水と深く関わり、水は豊かな産物の元であることから、どちらも五穀豊
          穣につながる福神として古来より信仰されてきました。
          毎年9月に行われる「巳成金(みなるかね大祭」では、年に一度の秘仏ご本尊の関係と、小判のお
          守りや福財布をお授けしています。
        七福神のはなし
          不忍池の辯天さまは江戸最古の七福神とされる「谷中七福神」のひとつです。
          七福神への信仰は江戸時代に大変に盛んになりましたが、これを広めたのが天海大僧正であっ
          たと言われています。
          当時は七福神が宝船に乗った絵を正月に買い求め、枕の下に敷いて「よい初夢」を期待するとい
          う風習が広く行われていました。
          現在も谷中七福神めぐりの期間は多くの参詣者を集めています。    寛永寺 教化部

                  



                                   



                              



                  



                             



                          



                            



                  



                    



   ● 東叡山寛永寺 不忍池辯天堂 大黒堂
        大黒天とは
           このお堂は、豊臣秀吉公が大切に護持したと伝わる大黒天が祀られる、東叡山寛永寺(天台宗)
           の伽藍の一つです。
           大黒天はもともとインド古来の「マハーカーラ」という戦争の神、時間 を支配する恐ろしい神と考
           えられてきました。
           やがて日本に仏教が伝わり、民間信仰の対象となってからは、日本古来 の福神の大国主命と
           同体である(大黒と大国は同音であるため)という考 えが生まれて武神から福へと変化し、広く
           親しまれるようになりました。
           打ち出の小槌や米俵に乗って福袋を担ぐお姿で知られる大黒天のご利益は、開運招福や家門繁
           栄、富貴をもたらすなどであり、また寺院の食料 の守護神として祀られるようになりました。
           この大黒堂は太平洋戦争で焼失しましたが、ご本尊の大黒天は安泰で、昭和43年に旧位置に再
           建されました。
        大黒さまの縁日「甲子/きのえね」
          大黒天の縁日である「甲子の日」は、毎日に千支を当てはめると最初に当る日です。
          そのため物事をはじめるのに縁起を担ぐ習慣が昔からあり、大切にされてきました。
          また大黒天が食料の守護神とされたことから、鎌倉時代にはその使いが鼠(ねずみ)と考えられる
          ようになりました。
          子(ね)を鼠と結びつかせ、鼠を大黒天の使者みなして甲子の日に大黒天祭(甲子祭)が行われ、甲
          子侍(かっしまち)と言って子の刻(23時頃)過ぎまで起きて大豆、黒豆、二股大根などをお供えし大
          黒天を祀るという習慣に通じました。
        辯天さまと大黒さま
          辯才天を祀る辯天堂の境内になぜ大黒天が祀られているのでしょうか。
          これは、大黒天と毘沙門天と辯才天が合体した「三面大黒」にその淵源を探ることが出来ます。
          大黒天は「食料や富を授ける」、毘沙門天は「武力や勇気を授ける」、辯才天は「美や才能を授け
          る」福神とされ、六本の手には衆生を救済し福徳を授けるとされる様々な道具を持っており、合体
          することでよりご利益が増えると考えらえました。
          この三面大黒を最初に信仰されたのが日本天台宗の宗祖である伝教大師最澄さまであり、また
          豊臣秀吉公も出世を願って三面大黒を信仰したことで「豊太閤」となったと伝えられています。
          江戸最古の七福神とされる「谷中七福神」の大黒天は、寛永寺の旧釈迦堂である護国院に祀ら
          れています。          寛永寺 教化部

                      



                              



    * (左/辯天堂)・・(中/不忍池蓮見の図/江戸名所図会)・・(右/不忍池辯才天の図/北斎筆)

                 




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