(飯盛分店HPよりお借りしました) (画像をクリックすると大きくなります) << 霊牛神堂−→彰徳碑−→子育地蔵尊−→忠魂碑−→厳島神社−→ −→戸ノ口堰洞窟−→手水舎−→落合水尾句碑/浮野−→白虎清水観音 >> ● 「白虎隊伝承史学館/会津戦争資料館」の脇の旧参道を行くと鳥居が見えてきます。 ● 最初の鳥居手前左側に「霊牛神堂」があります。 飯盛山霊牛神堂由来 当山厳島神社御祭神は会津平を守護し給う弁財天におわします。 風土記にいう 「永徳年間この社造作の始め 童女赤飯を牛に駄して来り役夫に振舞い食えども盡きずの ち南へ行くこと数十歩にして見えず その地を牛ヶ墓といい山を飯盛山とよぶ」と さる昭和 48年癸丑元年先代山主正成神霊夢枕に現れ「此の所を掃い清めて弁天様の案内神を祀 るらん」と告ぐ 謹みて按ずるに霊牛神に他ならず よって願いを立て御神体を奉じて御神 徳を仰ぐものなり 昭和56年10月 願主 飯盛正日 瞳 ● 石碑(彰徳碑) 百数十年前 30有余年に亘り会津地方の運送交通公共事業等に多大の貢献を成し現在の会津 地方発展の礎を築き上げた鈴木久次郎翁の徳を領し其の名を永久に伝えるため建立されたのが 此の彰徳碑である。 平成15年11月吉日 親和会 ● 最初の鳥居を通過。 ● 赤い鳥居手前右側に「子育地蔵尊」が。 ● 鳥居の正面に「厳島神社」が。 厳島神社 当社は宗像三女神の一にして古くから人々の信仰が厚かった、主神は市杵島姫命である。 会津の領主芦名直盛公の時代、石塚、石部、堂家の三家によって社殿が建てられたるものとし て時は永徳年間のことである。 別當は正宗寺である、降って元禄13年には会津藩主松平正容公は御神像及び土地を寄進され 明治の初期に厳島神社と改めたこの山を飯盛山と呼ぶ、別名の辯天山は、この神社にあやかる ものである。 ● 戸ノ口堰洞窟 猪苗代湖北西岸の戸ノ口から、会津盆地へ水を引く用水堰で全長31kmに及ぶ。 元和9年(1623年) 八田野村の肝煎八田内蔵之助が、開墾のため私財を投じ工事を行い、寛永18 年(1641年)八田野村まで通水した。 その後、天保3年(1832年)会津藩は藩士佐藤豊助を普請奉行に任命し、5万5千人の人夫を動員し 堰の大改修を行い、この時に弁天洞穴(約150m)を掘り同6年(1835年)完成した。 慶応4年(1868年)戊辰戦争時、戸ノ口原で敗れた白虎士中2番隊20名が潜った洞穴である。 ● 戸ノ口堰水神社 ● 手水舎 ● 落合水尾句碑「浮野」 ● 白虎清水観音 由来 飯盛山は、又の名を弁天山と稲せられ神佛の宿ります霊山なり 白虎隊士も幼少よりよく遊び し所ならば、戸ノ口原の戦いに敗れ引揚げしとき 当山を目標の地とせしものにて、古来湧き 出づるとの清水に喉をうるおしたるにより、白虎清水と名付けられたり。 今次修現没築にあたり、慈母子育観音像を安置し奉り白虎隊士をはじめ幾度の戦役等におい て、祖国に殉じたる少年達の霊を弔うものなり (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |