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<< 多聞櫓−→太鼓櫓 >> ● 平櫓に戻り、多聞櫓・太鼓櫓方面へ。 ● 穴の正体は? 壁面につくられたいろんな形の穴を狭間(さま)とよびます。 鉄砲や矢を放つための仕掛けです。 正方形や三角形の穴は鉄砲狭間、長方形の穴は矢狭間と呼びます。 外の敵からは攻撃されにくく、内側からは外を見やすいような工夫がされています。 ● 史跡広島城跡二の丸復元模型 (縮尺 1:100) ● 史跡広島城跡二の丸表御門及び御門橋復元模型 (縮尺 1:20) ● 広島城再建天守閣の鯱瓦(しゃちがわら) 昭和33年(1958)、天守閣再建時に製作された再建天守閣の初代鯱瓦です。 原爆で倒壊した広島城を再建する際には、過去の図面や外観写真などが参考にされました。 しかし、鯱瓦については細部が不明であったため、福山城の鉄筋御門の鯱瓦などを参考にし製作さ れました。 この鯱瓦は平成3年(1991)の台風19号により破損したため二代目に取り換えられました。 その後二代目は芸予地震(平成13年・2001)により破損し、現在天守閣の屋根にあるものは三代目 の鯱瓦です。 ● 1700年前の地形模型 (推定 5000分の1) 中小田古墳群がつくられたころの、ひろしまの地形を推定復元してみました。 どうでしょうか? ひろしまの母なる川、太田川の位置がちがっていますね。 ● 鳥籠山(とこのやま)城跡 (1/300) 鳥籠山城は阿曽沼氏によって長期間使われてきました。 江戸時代の天保2年(1831)の絵図によると、壮大かつ戦略性にとんだ縄張りであることがわかります このジオラマは、現地踏査と絵図をもとに再現しましたが、なおはっきりしない点が多く、製作にあたっ てはたいへんな苦労をしいられました。 絵図と見くらべてみてください。 ● 吉田郡山城(よしだこおりやまじょう) 全域模型(S=1/1000) 郡山城(現広島県高田郡吉田町)は広島城築城以前の毛利氏の居城で、毛利元就は城を拡張し、 郡山全域を要塞化した山頂に本丸、その周辺に二の丸・三の丸を置き、南下方に元就の子・隆元 の住居があった尾崎丸を設けている。 本丸から延びる屋根上には合計で200を超える曲輪がつらなり、山下に掘をめぐらしている。 山の地形を利用した郡山城は、戦乱が日常化していた戦国時代には適した城であったが世の中が 安定してくると時代にそぐわなくなり、やがて元就の孫の輝元は瀬戸内海に面し交通に便利な広島 湾頭に築城し、本拠地を移すことになる。 ● 太鼓櫓へ。 江戸時代には、ここ太鼓櫓の2階に時を告げる太鼓が置いてあり、朝夕太鼓を打ち鳴らして城門の 開閉や藩士の登城の合図にしていました。 たまに、太鼓の音が小さかったり、時刻を間違えたりして注意されることもあったようです。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |