(1)表御門→平櫓→渡櫓

                                


                          (広島城HPからお借りしました)

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  ● 二の丸表御門から入ります。
      史跡広島城跡二の丸表御門(復元)
         規模 桁行7.64m、 梁間4.85m、 軒の出1.27m、 軒高7.03m、 棟高10.61m
         構造 木造脇戸付櫓門、 入母屋造、 本瓦葺、 軸部真壁、
             軒塗籠、 両側面一間庇付
           表御門は天正期末(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による焼失までの
           約350年間存続していました。
           現在の表御門は、平成元年の広島城築城四百年を記念して復元に着手し、平成3年に完成し
           たものです。
           この平成の復元では、昭和9年に当時の陸軍第五師団経理部が作成した実測図をもとに、発
           掘調査の成果や明治期から昭和期にかけての写真を総合的に検討して、焼失後も残存した
           表御門の礎石(柱下の石)上に、昔どおりの工法によって往時の姿をよみがえらせています。
           をよみがえらせています。   平成3年12月   広島市教育委員会

                          


                  


                  



 



    


                          (全景は、パノラマでご覧ください)


                             


                  


  ● 史跡 広島城跡 二の丸跡
       この石垣と建物に囲まれた二の丸は馬出しの機能を持つ郭で、全国の近世城郭の中では特異な配
       置であり、広島城の特徴とされています。
       この郭は、毛利時代(16世紀末)に築造されたもので、外側から内部が見えにくく、本丸からは内部が
       見える構造としており、防御機能を考慮したことがうかがえます。
       郭内には、表御門、太鼓櫓など近世初期の建物が残っていましたが原爆により倒壊、焼失しました。
       原爆により倒壊、焼失しました。
       現在の建物は、築城400年を契機に江戸時代の姿に復元整備したものです。 広島市教育委員会

                          


                     


  ● 二の丸の特徴
       天正17年(1589)、毛利元就の孫である毛利輝元によって、広島城築城の鍬初めが行われました。
       この二の丸は、他の城に比べると規模が小さいのが特徴で、本来は馬出し(城内からの出撃の拠
       点)としての機能を持っていたと思われます。
       二の丸の西面に開かれた表御門は階下が城門、階上が渡櫓となっていました。
       これは「櫓門」と呼ばれるもので、広島城の主要な城門はみなこの形式でした。
       階上の櫓部分の柱と長押を白木をそのまま見せる「真壁造」で、たいへん古風な外観でした。
       平櫓・多門櫓・太鼓櫓とも外壁は黒い下見板張(壁に横板を少しずつ重なり合うように取り付けたも
       でした。
       内部は梁をむき出しにし、柱や長押も漆などを塗らずに、木の肌を出したままの質素な造りになって
       いました。
       新しいタイプの城は、柱もすべて白漆喰で塗込める「聡塗籠」であることが多いので、古風な様式で
       あることがわかります。
       現在の二の丸は、毛利輝元が建てたころの様式を木造で復元したものです。
       写真は明治期に描かれたと思われる「旧藩時代広島城の絵図」です。写真提供/広島市公文書館


              


         


  ● 史跡広島城跡二の丸 平櫓・多聞櫓・太鼓櫓(復元)
          平櫓・・・・木造一重隅櫓・・入母屋造・・本瓦葺
          多聞櫓・・木造一重渡櫓・・切妻造・・本瓦葺
          太鼓櫓・・木造二重二階隅櫓・・入母屋造・・本瓦葺
        規模
          平櫓・・・・桁行 12.43m・・梁間 8.64m・・棟高 7.76m
          多聞櫓・・桁行 67.86m・・梁間 4.93m・・棟高 5.13m
          太鼓櫓・・桁行  8.49m・・梁間 7.76m・・棟高 10.60m
      平櫓、多聞櫓及び太鼓櫓の創建時期は、天正期末(16世紀末)頃と推定されています。
      このうち太鼓櫓は17世紀初期に改修されたものの、3棟とも江戸時代を通じて、二の丸の馬出機能を
      確保する建物として存在していました。
      その後、平櫓及び多聞櫓西半分(平櫓側)は明治初期に取り壊され、残った太鼓櫓や多聞櫓東半分
      についても昭和20年8月6日の原爆被爆によって倒壊炎上しました。
      この建物は、平成元年の広島城築城四百年を記念して、発掘調査や昭和初期に当時の陸軍築城
      本部が作成した実測数値、明治から昭和にかけての写真等をもとに、復元に着手し、平成6年8月に
      完成したものです。

    * (太鼓櫓)・・・(多聞櫓・平櫓)

                


                  


  ● 平櫓のなかへ

                  


                  


  ● 三子教訓状(さんしきょうくんじょう)
       〜元就(もとなり)直筆の書状(複製)と現代語訳〜
          この「三子教訓状」は弘治3年(1557)11月25日、元就が61歳のとき、長男の毛利隆元に宛てた
          書状です。
          後に、この教訓状をもとに創作された話が「三矢の訓」といわれております。

                          


  ● 表御門上の渡櫓へ

                  


  ● 太鼓櫓(ミニチュア)
       木造二重隅櫓 入母屋造 二階建 本瓦葺   延べ床面積 約95平方メートル
          二の丸唯一の二重櫓で、二階に太鼓を置き、時太鼓を打って城門の開閉の合図を行った重要
          な櫓です。
          元和6年(1620)に台座の石垣が崩壊したため再建されました。
          表御門より建築年代が新しかったので、屋根の反りも少なく年代相応の趣きを見せていました。
          太鼓櫓という特殊性から、二階に高欄付の廻縁を設けるなど、城内のほかの二重櫓とは全く異
          なった造りでした。

                   


                  


  ● 平櫓(ミニチュア)
       木造一重隅櫓 入母屋造 平屋建 本瓦葺   延べ床面積 約108平方メートル
          毛利時代の創建と考えられるが、二の丸平櫓台は、福島氏の時代の再築と思われています。
          文化9年(1812)、落雷により屋根や壁を破損しており、そのときあるいは明治5年頃に撤去され
          たようです。
          復元には、「安芸国広島城所絵図」に描かれた姿図が用いられ、江戸時代の姿に戻されてい
          ます。

                   


                  


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                                ● (入口へ) ●



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