(画像をクリックすると大きくなります) << 一陽橋−→春陽橋−→波祢橋−→西口券売所−→北の郭−→ −→武徳殿休憩所−→籾蔵跡−→子の櫓跡−→東口券売所−→丑寅櫓 >> ● 護国神社をすぎ、「一陽橋」方面からまわります。 一陽橋 外濠を隔て、市街地である紺屋町と四の丸に架かります。 1943年(昭和18年)、市民の通行の利便性のために架橋されました。 橋の名称は、橋を架けた頃に「一洋」という酒造店が近くにあったため、その一字をもじり「一 陽」としたという説があります。 一陽橋は、昔ながらの趣を伝える素朴な木製の橋です。 ● 春陽橋 西濠を隔て、市街地である五十石町と西の郭に架かります。 1932年(昭和7年)、市民の通行の利便性のために架橋され、城内では最長の橋となりました。 * (右画像/春には桜のトンネル) ● 波祢橋(はねばし)を渡ります。 二階堰を隔て、四の丸と西の郭に架かります。 1671年(寛文11年)、4代藩主信政が架橋したとされます。 この橋は、その名の通り、橋を跳ね上げられる可動式だったという説があります。 殿様がお忍びで市中へ出向いたり、隠密が殿様の密命を受けて本丸へ出入りしたりする際に用い られたと思われます。 * (東屋)・・・(蓮池) ● 東屋に裏の階段をのぼり、西口券売所へむかいます。 ● 西口券売所で料金を支払い通過。 ● 北の郭 面積約9,300m2の北の郭は、西方から北方にかけて高さ約6mあまりの崖に面しています。 北東隅には、二の丸に現存する三棟の櫓と同規模の三層の子の櫓がありました。 発掘調査により、子の櫓のほか、館神、籾蔵などの跡が確認され、本丸に次ぐ重要な郭であるこ とが明らかになりました。 ● 武徳殿休憩所 明治44年(1911)に演武場として竣工。 その後休憩所として保存修理したもので、物産の販売や、喫茶コーナーのほか、北の郭で発見さ れた出土品も展示しています。 ● 籾蔵跡(もみぐらあと) 寛文12年(1672)に四代藩主信政の生母である久祥院(きゅうしょういん)の屋形が建てられ、廃藩 の頃には、籾蔵が建ち並んでいました。 現在は、その礎石列を表示しています。 ● 子(ね)の櫓跡(やぐらあと) 北の郭東北隅の土塁上には、藩政時代を通して三層の櫓がありました。 櫓の中には、武具の他に藩庁日記なども保管されていました。 子の櫓は廃藩以降もその姿を留めていましたが、明治39年(1906)に花火のため焼失してしまいま した。 子の櫓跡 平成13年度の発掘調査により、正方形に並ぶ櫓の礎石と石段が確認されました。 櫓の礎石には、石切の際の矢穴や柱を据えた凹(くぼ)みのあるものがあり、中央には束石 (つかいし)があります。 櫓の規模は4間×4間(約8×8m)であり、二の丸に現存する三棟の櫓と同規模となります。 櫓の基礎及び石段については、発掘調査で確認されたままの状態で表示しました。 ● 東口券売所を通過すると「丑寅櫓」が。 二の丸丑寅櫓(うしとらやぐら) 城郭に取り付く敵を攻撃したり物見のために造られ、防弾・防火のために土蔵造りで、銅板葺 (当初はとち葺)となっている。 軒下や出格子の木部は素木のままで飾り気がないが、独特の美しさを見せる。 櫓の方角を十二支で示したもので、丑寅は北東に当たる。 *(東口券売所)・・・(丑寅櫓) (画像をクリックすると大きくなります) ● (入口へ) ● |