御主殿へは徒歩約15分、山頂の要害地区へは徒歩約40分 (画像をクリックすると、大きくなります) |
<< 冠木門−→建物跡−→塀跡−→道路状遺構−→塀跡−→掘立建物跡−→ −→広間跡−→折中門跡−→主殿跡−→庭園−→池を中心とする庭園遺構 >> ● 冠木門を入ります。 ● 左側土手の階段をのぼると曳橋がよく見えます。 御主殿跡 御主殿跡は、落城後は徳川氏の直轄領、明治時代以降は国有林であったため、あまり人の手が 入らず、落城当時の状態のままで保存され、遺構の状態も良好でした。 平成4年(1992)から2年間発掘調査を行い、城主であった北条氏照が執務を行ったと考えられる、 大規模な礎石建物跡をはじめ、さまざまな遺構が発見されました。 調査の結果、氏照の生活の場はここからさらに奥に眠っていると思われます。 また、中国の磁器類の破片や国産の陶器、鉄砲弾をはじめとする武器・武具類などの遺物が発見 されました。 中には当時の武人のたしなみであった茶道具や、当時でも極めて珍しかったと思われるベネチア 産のレースガラス器の破片も含まれ、氏照の生活ぶりがうかがえます。 八王子市教育委員会 ● 右側に「建物跡」が並んでいます。 ● 塀跡 主殿の北東側に位置し、道路と並行してさらに北側の未発掘部分に続いていくようです。 土色に舗装した部分が塀の範囲を、着色した部分が柱穴の位置を示しています。 発掘調査時に、石列の間に6寸(約18cm)の正方形の空洞になった柱穴が4か所検出されました。 ● 道路状遺構 通路と考えられる道路状遺構は主殿の北東側に位置し、さらに北側の未発掘部分に続いていくようで す。 東西の両側は石列となっており、その幅は4.2m、確認された長さは7.2mです。 路面は山砂利を多く含む黄褐色土を突き固めて構築され、中央部がやや高くなっていました。 ● 塀跡 土色に舗装した部分が塀の範囲を、着色した部分が柱穴の位置を示しています。 発掘調査時に、内部が空洞になった円形の柱穴が7ヶ所一列になって検出されました。 落城の際に柱の根元が焼け残り、その後その柱が腐り、空洞化したものと思われます。 ● 掘立建物跡 土色に舗装した部分が建物の範囲を、着色した部分が柱の位置を示しています。 掘立建物とは、地面に柱穴を掘りくぼめ、そのまま柱を立てた建物のことです。 発掘調査時に、内部が空洞になった柱穴が16ヶ所検出されました。 落城の際に柱の根元が残り、その後柱が腐り、空洞化したものと思われます。 ● 広間跡 ● 折中門跡 ● 主殿跡 主殿は中心となる建物で、政治向きの行事が行われたと考えられます。 広さは15間半×10間(29.4m×19.8m)で、折中門とよばれる玄関から入ります。 大勢の人が集まる「広間」や、城主が座る「上段」などがあります。 建物は平屋建てで、屋根は瓦ではなく、板葺きか檜皮葺きと思われます。 ● 庭園 会所と主殿の建物に囲まれた範囲に、大小の礫を配した庭と考えられる遺構が見つかりました。 北側に未発掘部分があるので、全体の規模や構造に不明な点はありますが、発掘調査で検出された 姿に再現してあります。 会所から枯山水の庭をながめながら、宴が開かれていたと思われます。 ● 池を中心とする庭園遺構 会所と主殿の建物に囲まれた範囲に、池を配した庭が見つかりました。 池は2段ないし3段に石を組んで護岸施設をつくり、池と陸がわかれるような構造となっていました。 池底には粘土がはられていましたが、各種分析の結果から見ると、大雨の後に水がたまった程度のも のであったと考えられます。 池の護岸周辺には大きな石を配置して、庭の景色をつくっています。 池の西側には池の近くに寄れるように石を敷き詰めた通路もみつかっています。 池や庭に使われた石は八王子城周辺の山からとれる砂岩という石で、他から運んできたものではない ようです。 池の全容が明らかになっていないため、今回は整備を行わず、埋め戻したままになっています。 平成26年9月 八王子市教育委員会 (全景は、パノラマでご覧ください) (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |