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<< 駐車場−→玉川先賢彰徳碑−→佐藤信義先生顕彰碑−→佐藤貞子碑−→ −→抱返神社(別途記載)−→巫女石−→神の岩橋−→若松堰 >> ● 抱返り渓谷入口には、駐車場・売店などがあります。 玉川先賢彰徳碑について 仙北平野を流れる玉川の源は、八幡平の焼山付近にあり、強い塩酸泉が湧きだしています。 そのために、魚は住まず、農作物の収穫量は少なく、治水工事もむずかしいことから、毒水と呼ばれ、 流域の住民をなやませました。 江戸時代の天保・嘉永・安政年間に、角館の田口幸右衛門宗俊・宗辰父子、生保内の平鹿藤五郎は 私財を投じて、湧き出る泉を枯れさせる工夫や、堰を造って熱湯の流れを変えたり、有毒なガスが水 に溶け込まないようにするなど、たいへん困難な工事にあたりました。 やがて、玉川には魚が繁殖しだし、田地の収穫も増えるようになり、人々に感謝されました。 その後、天災や戊辰の役などがあり、除毒の施設が荒廃しました。 慶応年間に鑓見内の小松市右衛門が、同志とともに、再興を図りましたが、残念ながら目的を達する ことができませんでした。 昭和になり、先賢者の尊い意思と、流域住民の強い願いを実現するため、国や県が毒水排除をめざ す努力を続けています。 この碑は、玉川毒水排除に、私財を投じ、身命を捧げた先賢者の偉業をたたえ、永く後世に伝えよう と昭和13年に仙北教育会が建立し、そのご大曲仙北校長会が引き継ぎ現在に至っています。 昭和62年10月17日 大曲仙北校長会 佐藤信義先生顕彰碑(初代田沢湖町長) 佐藤貞子碑(秋田おばこ開拓者) ● 「抱返り渓谷歩道入口」にしたがい鳥居をくぐります。 ご案内 ←回顧の滝 回顧(みかえり)の滝(終点)まで徒歩で片道約30〜40分です。 遊歩道は舗装していませんので足元には十分ご注意ください。 ● 右側に抱返神社の鳥居があります。 抱返神社は、別途記載してあります ● 右側に抱返神社を見ながら進むと「神の岩橋」になります。 ● 神の岩橋を渡る途中、左側には「若松堰」が、右側には「巫女石」が見えます。 巫女石・・・増水ため、川を渡れずにいた巫女を明神様が救ったという伝説の岩。 ● 神の岩橋を渡り対岸には、神の岩橋の案内板があります。 神の岩橋 この吊橋は、秋田県では最も古い吊橋で大正15年(1926)に完成しました。 抱返り渓谷入口の象徴として、昔からその美しい姿を碧水の水面に写しています。 この神秘な橋の名は、旧神代村と旧白岩村から一字づつとって名付けられたといいます。 真に神秘の渓谷にふさわしい名称ともいえましょう。 秋田県仙北市 ● 若松堰 若松堰の役割 若松堰は、仙北市田沢湖卒田地内に位置し、玉川右岸より取水された用水は、西側3kmに位置 する64haの水田に灌漑されています。 *灌漑:農地に水を供給すること 若松堰の開発 若松堰の開発は、寛文13年(西暦1673年)に当時の卒田村の門兵衛と荒川尻村の作兵衛が佐竹 藩に注進して工事を請負い、この地に堰を設けたのが始まりとされています。 さらにこの工事では、2箇所の隧道を掘り、抱返村(西暦1677年に若松新田村に改称)に至る一里 半(約6km)の水路が延宝3年(西暦1675年)までに整備されました。 *隧道:水を供給するトンネル 若松堰の沿革 若松堰は毎年のように洪水被害を受け、その都度復旧して維持管理に努めていましたが、昭和4 年に県の許可を受け、強固なコンクリート堰に改修されました。 しかし、その後も、洪水の被害があり、復旧に莫大な労費を投じても、水は不足して水田の荒廃が 進みました。 そのような中で昭和23年のアイオン台風による被害は甚大で、同年度に災害復旧事業として採 択され、復旧整備が昭和26年に完了しました。 さらに昭和29年には隧道の復旧を、昭和40年には堰の復旧をそれぞれ災害復旧事業により行 われました。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |