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● 抱返神社の由来 康平5年(1062.09.07)前9年の役で源義家が盛岡廚川(くりやがわ)の棚の阿倍貞任を攻める為、此の 地より玉川の川筋を進もうとし川の流れの静かなる事を願って持仏を祀って祈願した。 祈願を済ました義家は再び持仏を懐にして廚川の柵を攻めたこの戦いで、義家は勝利を治めここまで 無事に帰ることが出来たこれを喜んで、義家はこれも仏のお陰を改めて堂宇を建て懐の持仏を祀った のが懐返神社の始まりとされ、つまり祈願した持仏を懐に入れお守りとして持って行き、再び還って来 たから「懐き還る」「懐還神社」と言い伝えられています。 なお明治維新後に抱返神社と改書きされた元録七郡絵図では、村の鎮守は水尺(みずしゃく)明神とし て図示されているが、現祀神は水波能賣神を祀っています。 また往古より龍神・水分神・養蚕の守護神をして遠近各地より崇敬を仰いで居ます。 康平5年(1062)に建てられたと言う堂宇も、そのご幾度か建て替えられたようで、延宝3年9月16日( 1676)社殿および長床を建てて若松村鎮守とした。 敬白 ● 長床(左側) 「絵馬」 神社に参拝した際に、祈願の内容を絵馬に記して奉納しますが、これはもともと、神々に本物の馬を 供えていたことに由来します。 その起源は古く、平安時代に遡ります。 祈雨止雨、そのほかの祈願のために生きた馬を献上していましたが、その後、この代用として馬像や さらに板に馬の絵を描いた絵馬が奉納されるようになりました。 当神社は往古より渓谷に流れる水を一切司る神を祀り、雨乞い、龍神・水分神・養蚕の守護神として の信仰篤く、奉納された絵馬には馬や龍が描かれたものが数多くあります。 生きとし生けるものは、すべて水無くしては生命を保持することはできません。 稲作をし米を主食とする私たちにおいては、雨を降らせ、また止めるなど雨を司る龍神に対する人々 の尊崇の念はきわめて篤く、古来より今日にいたるまで変わることなく続いています。 祈雨には黒馬、止雨には白馬・赤馬が描かれ五穀豊穣・地域繁栄・諸祈願に祈りの心を表す絵馬が 奉納されています。 ● 手水舎(右側) 手水のつかいかた まず左手を洗います。 つぎに右手を洗います。 おわりに左手に水をうけて口をそそぎます。 ● 抱返神社 御神祭 水波能売神(ミズハノメノカミ) 寛文13年、抱返村(現在の若松地区)の開墾の際に水源至難の為大和の国丹生川上神社に願い出 て御分霊を勧請し奉祀しました。 延宝3年9月16日社殿及び長床を建築し抱返村の鎮守社として毎年9月16日を例祭日としています (現在は旧暦9月16日) また次のようにも伝わる。 抱返村の開墾のはじめ、あまりにもお天気が続いて、その為水源が枯れて植えつけた苗が枯れ死ぬ という騒ぎとなりました。 この知らせを聞いた藩主佐竹公は使者に斎藤仁兵衛外2名を出張させ検分するに、聞きしにもまさる 悲惨な様子に抱返の水源に雨乞いをしたところ、不思議の奇瑞あり。 たちまちに掻き曇りて大雨となり、枯れかかった苗も生色をみせ百姓達は大喜びをしました。 こうしたわけから、この地に水尺大明神を奉祀しました。 抱返村というのは若松新田村の元の名で、延宝5年、平石藤右衛門が起高検使として同地に出張し て改名したものです。 明治10年町村を分合するにあたり卒田村と合併、明治23年町村制を布かれるとともに神代村の一 部落となりました。 明治維新後、水尺大明神を抱返神社と改名。 また、当時「抱返」は「懐還」と表記されていました。 雨乞い、龍神・水分神・養蚕の守護神として、今でも「明神さま」と呼ばれ、遠 近各地の崇敬者より 高い信仰を仰いでいます。 (画像をクリックすると、大きくなります) ● (入口へ) ● |